2011年9月19日月曜日

May the Patten be with You - パターンと共にあらんことを

少し前に、富士通のドキュメント・スキャナー Scan Snap S1500を購入しました。 もちろん、購入目的は、本をスキャナーに読み込んで電子化する、いわゆる「自炊」をするためです。

それで、購入してから既に約2,000冊の電子化、もっと正確に言えば、トータル容量で数GB のPDF化が完了したところです

これを少々大げさに言えば、物理的なモノの世界の制約から解き放たれて、単なる論理的な情報の世界への移行が完了したと考えても良いでしょう。 もちろん、この情報を読む物理的端末と電気エネルギーは必要なのですが、 「自炊」の利点としては、ノートPCで持ち歩いて思いついた時にあれこれ調べることが出来るためかなり便利になったと個人的には考えています。

で、「自炊」の作業のために本棚を整理していたところ随分前に購入したミッシェル・ワードロップの著作「複雑系」の書籍が見つかったわけですが、今日は「複雑系」について少し書いておきましょう。



複雑系とは何か?

 本書は複雑系の研究を行なっているサンタフェ研究所に集った中核となった研究者の足取りを負う格好で物語が進行していきます。 
 また、主人公は経済学者のブライアン・アーサーであたり、スチュワート・カウフマンであったり、ジョージ・コーワンであったり、という具合です。 

この展開は、TVドラマのERさながらのオムニバス形式のスピード感で複雑系の研究者達それぞれが歩んできた道にフォーカスされた縦糸、研究者達の相互作用が織りなす横糸が立体的に描かれている非常に素晴らしい書籍ですし、斬新なパラダイムに溢れています。

それで、「Being Digital」の著者であるネグロポンティが言ったように、世の中が物理的なアトムの世界からビットの世界、つまり情報が力を持つような世界においてはやはり既存の枠組みとは異なる世界観が必要だということになってくるように思います。[1]

例えば、コンピュータでも物理的なハードウェアを売っている会社は、製造過程においても1つ1つの製品の材料が必要であり、売上も物理的な制約を受け、ある程度規模が大きくなると収穫逓減でしか伸びていきません。 一方、ソフトウェアを売っている会社は、製造過程であるソフトウェアを開発すれば、その後の複製、流通のコストは非常に安いため、上手く行けば、売上は収穫逓増で伸びて行くというわけです。 もちろん、ソフトウェア開発にはバク修正などのメンテナンス必要が含まれるため、こう理想的には行かないのですが・・・

それで、本書「複雑系」中では文字どおり収穫逓増を扱う経済学の世界が登場するわけですが、この中でブライアン・アーサーの探求した複雑系経済学について旧来の経済学とどのようにパラダイムが異なるのか?について言及されている箇所がありこれが中々興味深いと思っています。
 
旧経済学
新経済学
収穫逓減
収穫逓増
十九世紀の物理学(均衡、安定、決定、論的ダイナミクス)
生物学に基本をおく(構造、パターン、自己組織化、生命サイクル)
人間は同一
個人に焦点。人間は分離し、異なる
(それぞれの個人はユニークな存在である。)
もし外的事情がなく、すべてが同じ能力を有していれば、われわれはニルヴァーナに至る
外的事情や差異が駆動力になる。ニルヴァーナは存在しない。システムはつねに開いている
要素は量と価格
要素はパターンと可能性
すべてが均衡状態にあるのだから、真のダイナミクスは存在しない
経済はつねに時とともにある。経済は前進し、構造はたえず、合体し、崩壊し、変化している。
対象を構造的に単純なものとみなす
対象を本質的に複雑なものとみなす
ソフト物理学としての経済学
高度に複雑な科学としての経済学

もちろん、これがアメリカの金融工学を駆使して実態経済の何倍にも膨れ上がった金融派生商品(デリバティブ)を見ると、単純に収穫逓増が良いとは言えないのでしょうが、複雑系が見ている世界観というのは個人的には非常に興味深い世界だというわけです。


複雑系の世界観
 今本書を読むとブライアン・アーサーはまさにグレゴリー・ベイトソン(もしくは、マトゥラーナやヴァレーラ)と同じ方向を目指しているのではないか?と思うわけなのですが、


デカルト(近代科学)の世界観
ベイトソンの全体論の世界観
事実と価値は無関係。
事実と価値は不可分。
自然は外側から知られ、諸現象はそのコンテクストから取り出され、抽象化されて吟味される(実験)。
自然は我々との関係の中で明らかにされ、諸現象はコンテクストのなかでのみ知ることが出来る。(参加する者による観察)。
自然を意識的、経験的に支配することが目標。
無意識の精神が根源にある。叡智、美、優雅を目標とする。
抽象的、数学的な記述。数量化できることのみが現実。
抽象と具象とが混合した記述。量よりも質が第一。
精神は身体から、主体は客体から分離している。
精神/身体、主体/客体はいずれも同じひとつのプロセスのふたつの側面。
直線的時間、無限の進歩。原理的には現実を完璧に知り尽くすことができる。
循環的(システムの中の特定の変数のみを極大化することはできない)。原理的に現実の一部しか知ることは出来ない。
AかBか」の理論。情感は生理現象に伴って二次的に生じる現象である。
AもBも」の理論(弁証法)。情感は精緻な演算規則を持つ。
<原子論>
<全体論>
1.物体と運動のみが現実。
1.プロセス、形、関係がまず、はじめにある。
2.全体は部分の集合以上のものではない。
2.全体は部分以上になる特性を持つ。
3.生物体は原理的には非有機体に還元可能。自然は究極的には死んでいる。
3.生物体、もしくは<精神>は、構成要素に還元できない。自然は生きている。
 
 上のリンクでも書いたモーリス・バーマン著の「デカルトからベイトソンへ」に書かれていたデカルトからベイトソンの世界観への転換は複雑系への転換を意味していることが分かってきます。

さらに、グレゴリー・ベイトソンの生誕100周年に併せて刊行された「Cybernetics & Human Knowing 」のベイトソン記念号の中を参照するとこの中に「May the Pattern be With You(パターンと共にあらんことを)」と題された、映画「Star Wars」をパロって、ForceをPatternに、Obi-Wan KenobiをGregory-wan Batesoniに置き換えた論文が記載されており、ベイトソニアンたるものForceではなく如何に定性的なパターンを使いこなすのか? [2]

これが重要なポイントになるということが書かれています。  

そして、ベイトソニアンたるもの、生きものが物理的もしくは論理的にどのように結びついてのいるのか? その「結ばれ合うパターン」を発見すること。[3]

 これが一つの基本のカタとなるわけなのですが、「Cybernetics & Human Knowing 」に寄稿された「Patterns That Connect Patterns That Connect」を参照すると、結ばれ合うパターンについての結ばれ合うパターンというようにそのパターンの抽象度を上げて、メタ・レベルに存在するバターンに着目することの重要性が書かれています。[4]

 それで、このあたりのことは一見、実生活にはまったく役に立たないように思われますが、ソフトウェア開発のような論理的な世界では、できるだけコードを書かずに多くの機能を実装するか? つまり、どれだけ質の良い抽象的なパターンを見つけられるのか?ということが直接生産性の向上に繋がってきて、卓越性を持つ設計者や開発者は、凡人開発者の10倍はおろか100倍の生産性をあげられるようなことが起こる源泉となる思考となるので本当はかなり重要なことになります。 それで、今日はここで筆をおくとして、このあたりのことはまたおいおい書いていくことにしたいと思います。

文献
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