2011年12月7日水曜日

言葉から誤解が生まれる



あえていくつかの意味に取れるように含みを持たせるというのも大人のコミュニケーションとしてはありだなぁ。

独り言


今日は、「言葉から誤解が生まれる」と題して少し書いておきましょう。

言葉から誤解が生まれる

今日は以下の書籍について少し書いておきましょう。

  私たちは仕事や日常生活の多くの場面において、実際の経験を抽象化した記号であるところの「ことば」でコミュニケーションをとっています。  

  一般意味論のコージブスキーの言った「地図はそれが示す領土にあらず」ではないですが、言葉は自分の外的世界の認識を含む経験の、内的なラベリングでもあるのでかなり主観的なものでしょうし、自分の捉えたクオリアとも言える質感のある情報がほとんど落ちてしまうという性質を持っていると考えられます。

 それである文脈における自分と相手の「ことば」によるコミュニケーションのシーケンスを考えると、


1.「ことば」の発信者は自分の経験を発信者自身の概念辞書(オントロジー)で符号化して「ことば」にする。

2.相手にこの「ことば」を送る

3.受信者は、この「ことば」を受け、受信者自身の概念辞書で復号化する

4.受信者はこの「ことば」を自分の表象に投影し、なんらかの反応を行う。



 ということになるでしょう。

 この前提として、主にメッセージについて考えていて、メタ・メッセージまで含めたメタ・コミュニケーション[1]については無意識に文脈を判断して言葉の意味を考えるといったこと以外あまり考えていないのですが、「ことば」の送信者の意図や目的に反して、「ことば」の受信者が誤解したやり方で、この「ことば」を復号化すると、当然、ここに誤解が生じることになってしまいます。

 もちろんこれが今ココで起こっていることをお互いが経験していることについて話すということになると随分誤解も少なくなるのでしょうが、今ココで起こっていることについて話している場合でも、相手の思考や解釈、意味づけというのは言葉や表情から探るしかなく、もっと言うと、「事実と思考、解釈、意味」の間には因果関係は存在しないわけですし、それは個人個人によってもその対応が異なるわけですから、このあたりをきちんと聞き出さないと誤解が生じてしまうということになってしまいます。

誤解を最小限にするには、どうするのか?

それで、ここでの問いの一つが以下です。

誤解を最小限にするには、どうしたら良いのか?

l       言葉の示すところを明示する

 当然、相手の内的な表象がどう生み出され、思考、解釈、意味を生み出すプロセスみたいなところがどうなっているのかは推測するしかないのですが、「言葉から誤解が生まれる」の中では、「ことば」の曖昧さ、つまり、 1)音声から生まれる誤解、2)文法から生まれる誤解、3)語義から生まれる誤解 4) 状況から生まれる誤解、5) 表現意図から生まれる誤解、など陥りやすい誤解について、曖昧さを無くしてコミュニケーションすることを心がければ誤解も随分軽減されるのではないでしょうか、ということが解説されていて非常に興味深く思ったところです。


本書の例としては、「部長絵はお上手ですね!」というような例があります。もちろんここでは、メッセージとして「絵が上手ですね」に加えて、状況にもよりますが、メタ・メッセージとして「でも、仕事はイマイチですよね。」というようなことを伝えていることになります。また、別の例としては、「刑事が自転車に乗って逃げる泥棒を追いかけた」のようになります、これには、「刑事が自転車に乗って、逃げる泥棒を追いかけた」と「刑事が、自転車に乗って逃げる泥棒を追いかけた」の曖昧さが残っていることになります。

 つまり、方向性としては主客の区別を付けて、言葉の示すところを明示する、あるいは言葉から連想されることが二重、三重にならないようにその対応を絞っていくという方向性になると思います。

l       言葉の示すところを敢えて曖昧にする

個人的にはこれだけでは面白くないと考えて、ここで遊び心を発揮して敢えて反対もありだなと思ってしまうところもあるわけです。 つまり、言葉の示すことに二重、三重の含みをもたせる、あるいはそれから連想されることを広げていくという方向性になると思います。


それで、個人的に思い出すのは、催眠療法家のミルトン・エリクソンが使った、あえて「ことば」を曖昧にするという意味でのアンビギュイティということになってきます。[2]

 エリクソンの場合のアンビギュイティは、 1) 音声的 2) 統語的(シンタクス) 3) 範囲(スコープ)、4)句読点(パンクチュエイション)に分けて語られることが多いわけですが、「ことば」によって頑固に固定化された認識主体の視座、認識や意味に対して、敢えて認知言語学で言うプロトタイプやカテゴリゼーションのグループ分けや関連性を一旦解体するような形式で用いて、新しい視座、認識、意味の再構築を促しているのが面白いところなのでしょう。  


例えば、落語「道具屋」で、たまたま店を訪れた大名が店番に質問をするところがあります。

大名「この鉄砲の ネ(値/音) はいかがなものか?」
店番「ドーン」

 ここまで来ると相当な達人ということになるのでしょうが、物事を具体化して正確にとらえようとする方向と、これとは反対に敢えて抽象化して曖昧にして含みをもたせたり、ユーモラスな状況を創りだすために創造性を発揮する方向は、言葉だけではなく、認識論や認知科学の視点からも、どちらもありだなと思ってくるわけです。

 もちろん、ここにベイトソンのマインドの理論を考えるとどの階型のメッセージなのか?といったメタ・コミュニケーションも考える必要があるのでしょうが・・・(笑)
   
文献
[2] http://en.wikipedia.org/wiki/Ambiguity


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