2011年12月31日土曜日

自己の境界



どこまでを自分と思っているのだろう?


我感じる、故に我あり。

独り言


今日は、「自己の境界」と題して少し書いておきましょう。

盲人と杖
 
ベイトソンのエッセーの中に盲人と杖を題材に書かれた有名なエッセーが存在します。[1]
ここでのテーマは、「杖をもった盲人が、自己と認識しているその境界はどこまでなのか?」です。

つまり、物理的には盲人と杖はまったく別々のモノですが、認識主体としての盲人が感じている自己意識の境界、つまり「どこまでを自分と思っている?」の答えとして、例えば、杖の先端まで届いていたりしています。

 これは、車を運転している時、「自己意識はどこまで届いているのか?」という問と同じようにも思ってきます。

 高速道路を走っている自己意識は車の隅々にまで広がっていて、轍に乗り上げた時、この轍をまるで、自分の足の裏やお尻で自分の肌で感じているということが起こります。

 つまり、この人車一体の状態で「どこまでを自分と思っているの?」と質問されると、おそらく、「車の外側」といった答えが返ってくるでしょう。  

 観察者から見ると、自分と車というように物理的にはまったく別個のモノが、論理的には繋がって感じられるというようなことが起こるということになります。

これから分かるのは、論理的な自己意識というのは、固定されたものではなく、その対象と範囲を含めて、刻々と変化しているのだと思います。 

  もっとも、余談ですが、ベイトソンは、一人ひとりの「ちいさなマインド」が結ばれ合って「大きなマインド」を形成するという考えて方について述べていますし、「ちいさなマインド」について言えば、「小さなマインド」である自己意識を宇宙全体に拡大して自己同一化しようというのが仏教の企ての一つということなのでしょう。

自己意識とオートポイエーシス
 
それで、上で書いたような刻々と変化する自己意識のようなことを表現したらどうなるかと考える人が居るのは世の常です。

 普通に考えると、ウィナーのサイバネティクスやベルタランフィの一般システム論[2]ではどうしても論理と物理の二元論を超えるような表記が難しく、ブリコジンの動的非平衡システムで複雑系に抜けるのもちょっと違うな、ということになってしまいます。

  それで、あれこれと考えていくと、家族療法にも持ち込まれているマトゥラーナ、ヴァレラのオートポイエーシスのシステム論で考えるようになって初めて物理的な身体と論理的な意識との相互作用を(数式とかを使わずに自由に)記述することが可能になるということになります。

http://www.enolagaia.com/Bib.html

 逆の言い方をすると、環境と自己とを区別して都度立ち上がってくる(生きている限り自己の連続性はある)オートポイエーシスは生命を記述するためのシステム論なので、心身二元論を超える生命を記述することにこそ向いているというわけです。

エリクソンの言語パターンとオートポイエーシス

 それで、前置きが長くなったわけですが、以下のリンクにあるように

http://www.emeraldinsight.com/journals.htm?articleid=875736&show=abstract

 催眠療法家のミルトン・エリクソンの質問をオートポイエーシスの視点から考察した論文が見つかります。

ここでの要点は、心理療法家がクライアントに質問をして、認識主体の向けている焦点を変え、(フッサール的に)意識の方向性を変え・・・とやっていくと、オートポイエーシス的に、自己意識を創りだす構成素が変わってくるということになります。

そして、自分で自分をどう感じているのか?という、自己意識(境界とか、質感・・・)というのは違ったものになってくるというわけです。

 この場合、オートポイエーシスで説明される、問題を抱えている時の自己意識をどう知覚させ、(クライアントのメタ認知を促すことで)うまく対処している時の自己意識にどう変化させているのか?という視点で読むと、とても面白くなってきます。


それで、こちらは家族療法のサティアの質問なのですが、以下の4つの質問をされると自己意識とか感覚とか範囲に気づけるのだろうなと思ってきます。


http://ori-japan.blogspot.com/2011/09/blog-post_04.html    

 それで、まったくの余談ですが、うまく会社を経営している経営者の意識の範囲がどこまで届いているのか?を聞いてみると面白いのではないかと思ってきます。

 もちろん、優秀なサッカー選手の意識の範囲がグラウンドのどの範囲に届いているのか?というのと同じようなことなのかもしれませんが・・・・それで、風姿花伝に書いてあった「離見の見」や五輪書に書いてあった「目付の話」で、当事者とメタの視点が統合されたような自己の意識を持つことか・・・となってくるように思ってきます。


 もっとも、オートポイエーシスが出てきて 何百年も前の存在した 達人の到達した境地をシステム論として説明することができるようになったのかなぁ・・・というわけです。

文献
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