2012年2月19日日曜日

すれ違いの構造(その3)


 
部分と全体の対立を解くというのは問題解決では非常に基本的なものだけれども、ある意味一番奥が深いパターンかもしれませんねぇ。

独り言


今日は、「すれ違いの構造 その3」と題して少し書いておきましょう。

部分と全体

「部分と全体」と聞くと、個人的には不確定性原理を提唱したドイツの物理学者ハイデルベルクの著書を思い出してしまうのですが、日常生活においても仕事の場面でも「部分と全体」という話は非常に深淵なテーマです。

それで、今日は物事の要素の捉え方、つまり認識論として部分を見ているのか?あるいは全体を見ているのか?について少し書いておきましょう。[1]

もちろん、一般的に物事の全体を捉えることは極めて難しいと思うわけですが、ここでは直観的に把握できる個々の要素が集合として全体である、としてざっくりと書いています。


部分………………全体


 以前は、「台所感覚での政治」といった女性議員が政治の場面に登場していたことがあるわけですが、これがトンデモなかったということを記憶の方も多いでしょう。 もちろん女性議員がいけないといっているわけではなくて、台所感覚という局所最適の考え方がいけないと個人的には思っているわけです。

 このような議員は台所感覚を唱えて、節約を唱えたり、とにかく貯蓄をしましょうといったことを提唱していたことを思い出します。

 もちろん、個人のレベル考えるのであれば必要以上の贅沢をしない、家の購入などを除いてはなるべく借金をしない、という考え方は重要でしょう。

 しかし、マクロ経済的には景気が良いということは、企業や公共団体の投資の増加+消費が増えることを意味しており、確かに景気が加熱した時に景気を冷やす意味での節約というのは重要なことですが、景気が悪い時に個々人が消費を抑えると景気はより一層悪化してしまうというような特徴を持っているわけです。

 それで、これから何を言いたいのか?というと、部分を見てやっていることと、全体を見てやっていることが必ずしも一致しない、例えば経済学の場合は「合成の誤謬」という用語で表されているような悩ましいことを世の中にはあまりにも多いということになってくるわけです。

 日常生活や仕事の場面を見渡しても「総論賛成、各論反対」というようなことはどこにでもありますし、ことわざにもある通りに「木を見て森を見ず」というようなことはどこにでも存在しています。(原発の必要性、米軍基地の移設、消費税の増税、年金社会保障の問題、円高デフレ不況・・・・何れにしてもどこかに部分-全体の対立に起因する問題ということが含まれています。)

 それで、大体の場合、局所的な視点から「よかれと思ってやった行為」が全体の視点から見ると無駄な努力に終わったり、むしろ有害であったりということになってしまうことが起こります。

すれ違いの構造

それで、ある人はいつも物事を部分的(局所的)に捉えており、別のある人はいつも物事を全体的に捉えているというような場合が想定されますが、この場合、相手の視点を理解する、例えば、いつも部分的な視点で考えている人が、全体的な視点で考えてみるというように異なる視点で考えることが出来ない場合は、相手の前提としている時間認識を理解することが出来ずにすれ違いが起こり、話が噛み合わないということになります。

台所感覚の政治の例を引くと、節約することで個人の消費が低迷し、ある日、マクロ経済の指標が発表されて始めて、この状況でこの政策が間違っていたというようなことに気がつくようなことになるのでしょう。

 企業経営のような場合はどうでしょうか? その企業の状況にもよるでしょうが、一般的には社長はよりマクロな経営のことを考え、現場は具体的な製品やサービスについてのミクロのことを考えるというようなことになるでしょう。

 つまり、役割によって見ている情報の抽象度が異なっているということが普通であり立場を変えた相手と話をする場合は、お互いにみっている情報の抽象度を合せないと話が合わないということになってしまいます。

 それで、企業経営などでどの役割の人はどの抽象度で物事を見れば良いのか?という疑問が起こるわけですが、その一例として、元IBMの研究所にいたジョン・ザックマン博士が提唱しているザックマン・フレームワーク[2][3]ということになります。
このフレームワークは、縦軸に書く立場の視点、例えば上に行くほど上位マネジメントで、下にいくほど現場のような階層モデルで表されていて、横軸に何を見れば良いのか?について書かれています。

 このモデルは立場によって抽象度の異なる情報を見る重要性について示唆していると同時に各階層のバランスを取ることで全体のバランスを取る重要性を示唆しているようにも思ってきます。

 それで比喩でいうとこういったフレームワークは、「木を見て、森も見る」というような全体-部分のバランスを図るような目的を持っていると思いますが、このテーマを追求していると一生終わらないですし、木と森を総合して観る視点を身につけるというのはある意味帝王学にもなってくるでしょうから、今日はこのあたりにしておきたいと思います。

(つづく)

文献

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