2012年3月12日月曜日

ミルトン・エリクソンの言語パターン(その10)遷移の言葉3



おいらは、松尾芭蕉の 子孫じゃないよ たぶん(笑)


それにしても、芭蕉の根底にあるのは禅と唯識だねぇ、句を読むとよく分かるねぇ。今風にいうとマインドフルネス(笑)。

独り言


今日は、「ミルトン・エリクソンの言語パターン(その10)遷移の言葉3」と題して少し書いておきましょう。

 俳句と催眠言語の共通点

昨日まで催眠言語の話をしてきましたが、今日はこれに関係する話として、少し俳句の話をしておきましょう。

それで、今日は芭蕉の俳句を取り上げ 4-tuple のフレームワークで見てみることにしてみましょう。

http://ori-japan.blogspot.com/2011/12/blog-post_05.html 

個人的な意見として、芭蕉の句は、外に開かれた知覚の注意を連携し、これらを流れとして捉えているような句が多いと考えています。

これは短歌など、時に自分の内側にある主観的な心情や気持ちを詠ったものとは違い、ひたすら、外の世界を冷静に見つめる眼差しから、知覚と知覚を連携することで作り出される「今ココ」にだけある世界のようにも思ってきます。

それで以下の表に基本的なパターンを示しておきましょう。

表1 外に向いた知覚→外に向いた知覚、それぞれの注意の遷移


Ve
Ke
Ate
Oe
Ve
1.Ve Ve
2 .Ve Ke
3. Ve Ate
4. Ve Oe
Ke
5.Ke Ve
6.Ke Ke
7.Ke Ate
8.Ke Oe
Ate
9.Ate Ve
10.Ate Ke
11.Ate Ate
12.Ate Oe
Oe
13.Oe Ve
14.Oe Ke
15.Oe Ate
16.Oe Oe

この表は、縦軸のVe(対象が外にある視覚)Ke(対象が外にある体感覚)Ate(対象が外にある聴覚、アナログ感覚) Oe(対象が外にある味覚、嗅覚)が横軸に先行して認識される知覚、そして横軸がそれに続いて、同期もしくは後に遷移する知覚として表されています。

 もっとも、そもそも論として、このパターンが、どのように実生活に役に立つのか?と即物的な質問をされると困ってしまうところもあるのですが、少なくとも読み手から魅力のある文章/小説を書く、面白そうにプレゼンテーションを行う、人を魅了するような演説を行う、あるいは俳句のような作品をつくる原型としては役に立つように思ってきます。


さて本題に入りましょう。

松尾芭蕉の有名な俳句があります。


古池や 蛙とびこむ 水の音


この俳句を読むと、作者がこの俳句をつくった時に、知覚がどのように遷移しているのかを考えることになります。


上の表からすると 3. Ve Ate 、省略しない形式で書くと<0,Ve,0,0><0,0,Ate,0>のように(外的な視覚)→(外的なアナログ音)のようになります。 これを、音楽のコード進行の比喩を借りると「外にある対象を視覚で捉えた映像」が「外にある聴覚で捉えたアナログな音」に解決されるような進行になっていると言っても良いでしょう。

ここでは、この句の前提として、芭蕉が実際にその場に居て、視覚で古池と蛙を認識している、そして芭蕉の耳に実際に音が聞こえてくる、というように、「今ココ」にあって、五感を外の世界に開いた状態で経験する、一次的経験(Primary Experience)をもとにこの句を創作したと考えています。

 つまり、この句は、禅の純粋経験を表すかのように、非情なまでに五感の感覚を研ぎ澄まして得た認識を取り扱っているように思えてきます。そして、芭蕉は「今ココ」にある風景に対して主観をまったく入れない形式で視覚と聴覚を連結することで、逆に妙に現実味のある世界を描いているように思ってきます。

 もっとも、この俳句を聞いた聞き手はその句から作者の視点や風景や心象を想像することになると思います。 これは、聞き手にとっては、この句を情報源としてココロの中に想起された二次的経験(Secondary Experience) となるため、それを正確に表現すると、R<0,Vi,0,0>R<0,0,Ati,0> というような表記になります。尚、Rは言葉から表象されることを示している操作子の意味で使われています。


もうひとつ、以下で取り上げた芭蕉の俳句について考えてみましょう。



海くれて 鴨の声ほのかに白し


これは、個人的には、非常に興味深い句です。 その理由の一つは、芭蕉が共感覚を保持していたのではないかという根拠にあげられることがある句だからです。

さて、上と同じように 4-tuple のフレームワークを当てはめて考えてみましょう。「海がくれて鴨の声を聞く」というところを考えると「古池や」と同じように3 .Ve Ate となり、対象が外にある視覚情報が、対象が外にある聴覚情報に解決されているようなパターンです。


 しかし、ここで面白いのは「鴨の声が白い」というようにアナログな聴覚情報となるべき情報が視覚情報として表現されている点でしょう。つまり、Ve Ate /Ve のように対象が外にある視覚情報が、「アナログの聴覚情報と視覚情報」の共感覚に解決されているような形式になっているというわけです。もちろん、ここでは海が暗く、声は白いというような対比にもなっているよう思えてきます。

もうひとつ、芭蕉の句を取り上げておきましょう。


鐘消えて花の香は撞く夕哉(かねきえて はなのかはつく ゆうべかな).


この句を 4-tuple のフレームワークで見ると、12.Ate Oe のように対象が外にある視覚が、対象が外にある嗅覚に解決されるような形式になっています。


 もちろん、ここで芭蕉の句が非常に卓越していると思える点は、(ジョージ・ミラーの同時に意識できる情報のチャンクサイズが7±2であることを前提に)夕暮れの景色の中、視覚による情報量が落ちてくるとともに聴覚による情報が増えてくる。そこで聞いた、余韻として残っている鐘の音が徐々にフェードアウトするに従って、その観察者である主体の嗅覚が、聴覚に連動するような形式でフェードインし、花の香りがだんだんと強く感じられるというように知覚の流れがその強弱も含め上手く表現されているところでしょう。

 さて、ここまで書いて思ったのは、実は「俳句」と催眠療法家のミルトン・エリクソンの使っている催眠言語は、聞き手の知覚に働きかけるという意味では非常に共通点が多いように思ってきます。これについて以下のリンクにあるミルトン・エリクソンの妻であるベティ・エリクソンの開発した「自己催眠」のスクリプトを読むと、言語を使って視覚→聴覚→体感覚と切り替えている、もっと正確に言うと視覚→聴覚→体感覚、それぞれに注意を向け、それを言語で記述する様子が理解できると思います。


http://www.ericksonian.info/BETTY.html

 それで、冒頭で取り上げたような表(この表は、対象が外にあることだけを扱っているため、対象が中にある場合も考える必要がありますが)に従って特定の知覚に焦点を当てて、この知覚を別の知覚に遷移するような補助線として作文を行うと催眠言語が出来上がるということになるわけです。 


 もっとも、この特別な形式として、基本的には、対象が外にある異なる知覚を連携した俳句をつくると、二次経験であったとしても、そのイメージの「今ココ」にあることで、一種の気づきがやってくるような芭蕉のような素晴らしい句が出来るというのも不思議なところなのでしょう。


 もっとも、催眠言語の場合、重要なことはレトリックとして格好の良い文章になっているということが重要ではなく、それを補助線として知覚が動く、そして、気づきが起こる、最終的にはクライアントをエンパワーするリソースを見つけてくることができる、ということが重要であることは言うまでもありません。
 
 もちろん、俳句を使って知覚を動かし、最終的にエンパワーできるリソースを見つけることが出来れば、催眠言語の代りに俳句、場合によっては短歌を使っても良いということになるわけです。

 まぁ、そんなわけで、後、30年くらいたったら、自分も含めておじいちゃん、おばあちゃんを集めた俳句教室でも開くかなぁ、と考えていたりもするわけです。(笑)

 それで、少し前に散歩していてつくった俳句を一句。


春の雪 烏も凍える 川辺かな

                    御氣樂斎
 えるるきんんほうか葉から作者の視点や心象を想像することになり、ose breathing.

解説するのも野暮ったいですが、2 .V Ke の視覚が感覚に解決するパターンを使っています。 この場合、見ている自分が寒いので烏(からす)もきっと寒いだろうというマインド・リーディングのパターンを入れ、さらに、雪の白と烏の黒を対比させて、VVe /K対象が外にある知覚が、対象が外にある視覚と体感覚の共感覚に解決されるような形式にしています。


http://ori-japan.blogspot.com/2012/03/blog-post_06.html 



追記1:外に知覚を開いている時、自己の境界がどこにあるのか?という問は非常に興味ふかいお話です。ブリーフ・セラピーの場合の自己の定義は仏教の空、あるいはオートポイエーシスのシステム論で規定されているように固定化されたものではありません。自己は状況によって創発するもの、自然と一体になった感覚から、自己という認識が芽生えて始めて主客分離が出来るもの、また認識によって主客分離が出来ていない純粋経験に戻すことが出来るものという具合に自在に変化します。したがって、ブリーフセラピーの場合に「自己開示」という言葉があるとすれば、主客分離の前に戻って、「場」に対して知覚を開いているプロセス自体を差すものであり、コンテンツを差すものではありません。


http://ori-japan.blogspot.com/2011/12/blog-post_31.html 



追記2:4-tupleで正岡子規の『夏の夜の音』を読んでみると、聴覚で聞いた事実としての音を描写しているだけなのですけれど、風情がありますねぇ。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/42172_12293.html


(つづく)
  
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