2012年5月6日日曜日

サンチェゴの認識理論



あれこれウンチクを言っていても、認識論って現実を見ている認識プロセスを記述して、説明しているに過ぎないという制約はいつも頭に入れておかないとなぁ。現実はこの理論に即していなければならない・・・と考えはじめたら、それって宗教だからなぁ。(笑)

独り言


今日は、「サンチャゴの認識理論」について書いておきましょう。

ベイトソンの思想は今どのようになっていたんだっけ?

 グレゴリー・ベイトソンは1980年に亡くなってしまったのだけれど、ベイトソンの認識論的な研究が今どうなっているのか?というのは非常に興味があるわけです。

 このあたりは以下のリンクで書いた会議のキーノートの演者とおおいに関係ある話でもあります。


 それで、ベイトソン派というわけではないのでしょうが、ベイトソンの認識論的研究が発展した形式として認識されている一つの認識論がウンベルト・マトゥラーナ[1]とフランシスコ・ヴァレラによって提唱されたサンチャゴの認識理論 (Santiago Theory of Cognition)[2]というわけです。
 

Living systems are cognitive systems, and living as a process is a process of cognition. This statement is valid for all organisms, with or without a nervous system.


 Wikipedia を参照すると、彼らの著作「オートポイエシス」[3]からの引用で、この認識論の原則が書かれているわけですが、要は、「生命は認識システムであり、プロセスとしての生きることは、プロセスとしての認識である。これはすべての神経系を持つ、持たないに関わらず、すべての器官に当てはまる。」から出発しています。

 このあたりは、後のラディカル構成主義につながってくるわけですが、日常生活で一体何の役に立つのか?と即物的な質問をされると、とりあえず、オートポイエシスをベースにしたオントロジカル・コーチング[4]の理論に取り込まれているよ、とかオットー・シャーマのやっている「U理論」[5]のベースの一つにはなっているよ、ぐらいしか答えようがないというところもあるわけです。



もっとも、この理論の一番重要なところは、Wikipediaのウンベルト・マトゥラーナの項目にあるように、


ハトの網膜の反応が外界の物理的刺激とは簡単には対応しないという観察事実がマトゥラーナが、オートポイエーシスの概念にたどり着くきっかけとなった。


の部分で、結局、自分が外界に直接反応していると思っていても、外界で起きていることと認識の間には直接の因果関係はなく、一般意味論的に言えば、自分の地図に反応しているということが神経科学、認知科学的に証明されたという点でしょう。

つまり、外界がどうなっていようとその反応は自分で選ぶことができるということになります。もちろん、通常この反応のほとんどは無意識的に行なっているため、これが好ましいものでない場合、その反応を変えるには、認知行動療法のような意識からアクセスする方法を使うか、エリクソン催眠のように無意識からアクセスするような方法を使って、新しい反応を生成しましょう・・・ということになってくるのでしょうが・・・

それで、マトゥラーナは途中で訳のわからなくなったオートポイエシスの理論を整理するような方向で今も考え続けているわけでしょうし、既に亡くなってしまったフランシスコ・ヴァレラは、なぜかチベット仏教に宗派替えをして、その著書「身体化された心」[6]で探求されていたような神経現象学を先鋭化する方向でダライ・ラマ法皇まで巻き込んで認知科学と仏教との対話を図っていたように思います。


 それで、ベイトソンの認識論のもう一つの発展系はエコロジーの方向へ発展したもの。

このあたりは、ベイトソンの著作「精神の生態学」の英語のタイトルが「Steps to an Ecology of Mind」だったことを考えると非常に納得できるところです。[7]

これは、「タオ自然学」[8]著者、フリッチョフ・カプラが強く推進しているように思ってくるわけですが、一言で言えば、人間は色々な生物とつながって生きているわけであり、このつながりの連鎖を考え続けましょう、という考え方になってくるというわけです。

 このあたりは、同じカプラの著作「The Web of Life(蜘蛛の巣のようにつながった命と命の網の意味)」[9]を読んだ時、認知科学者がぶっ飛びそうな「地球はオートポイエシスである」というメタファーで力説していた記憶があるわけですが、もちろんメタファーと考えればこれはこれとしてありなのでしょう。

 それで、金融だのエネルギーだの食料だのグローバル化によって世界が思わぬところでつながってしまって、その結果、思わぬところで脆弱性が顕在化している現在、このような考え方は今後増々重要になってくるように思ってきます。


 ここまで書いて思ったのは、なぜ認識論を探求するのか? それは、ベイトソンが言った「世の中の主たる問題は、自然の摂理と人の思考の差異によって生じる結果である。」


を解決することの出来る、より良い認識論を探しているからだと思います、きっと・・・

(つづく)

文献

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