2012年6月1日金曜日

パラドクスの定義




個人的に心理療法家のミルトン・エリクソンを面白いと思うのは、彼の技法や考え方の至るところに「鏡の国のアリス」のようなパラドクスが散りばめられているところでしょうかねぇ?(笑)。

一番弱いものが、一番強い。 一番何かをやらない人が、もっとも成果を得る・・・一番説明が少ない人が、一番理解される・・・・一番大きな抵抗にあったものが、一番先遠いところまで進める・・・・もっとも制限がある人が、もっとも大きく変化する・・・・

独り言


今日は、「パラドクスの定義」について書いておきましょう。

パラドクスを理解する

普段は何気なく使っている言葉の定義もそれが起こるプロセスに戻してみると非常に面白いことが分かります。

例えば、「パラドクス」。

個人的にも、「それはパラドキシカルだねぇ」などとつぶやいていたりするわけですが、「パラドクスって何?」「パラドクスはどんな条件、どんなプロセスで起こる?」と考えてみると非常に面白いことが分かります。

 Wikipediaの「パラドクス」[1]の項目を参照すると以下のようなことが書かれています。


正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。


 パラドクスは、演繹法、つまり経験などから身に付けたその人なりのルールから現実の現象がそれに当てはまるのか?という方向での推論に限るというところがミソなのですが、こういった思考プロセスで考えていると、受け入れがたい結論が導かれる状態がパラドクスだと定義されています。

 もちろん、この結論が出た場合に、目からウロコというような主体にとって何か素晴らしいと思える結論であれば問題ないのでしょうが、普通のパラドクスは独特の心身状態を伴って「こんなわけがない・・・」と、まったく腑に落ちない状態が発生しているということになります。

 パラドクスが起こる場合、思考プロセスのどこかに誤りがあるということが考えられますので、この場合、 1) 前提を確認してみる 2) 演繹による推論を確認してみる 3) 前提と推論に問題がない場合は実は結論は正しい ということになってくるように思います。


 もちろん構成主義的に考えるのであれば、(記号や言語による)思考や推論と、現実の物理世界で起こっていることには必然的な因果関係はない・・・という約束でしたからこの前提は頭に入れておく必要があるのでしょう。

 もっとも、いつも帰納法で考えいれば論理的には正しくなくても、パラドクスが起きることはないわけで、ある意味、経験から身に付けた信念めいたフレームワークから生まれる意味を停止して事実を冷静に眺めてみるというのは重要なことなのだろうなぁと思っている今日この頃でもあったわけです。


参考リンク
http://ori-japan.blogspot.jp/2012/02/blog-post_05.html
 

(つづく)

文献
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