2012年7月5日木曜日

グレゴリー・ベイトソン:7月4日の命日に

                                     

ベイトソンの第二次世界大戦中の合衆政府戦略局での活動については未だ資料が国家機密扱いになっているので断片的にしか知ることができないのだけれど、ゴルゴ13の一場面かフレデリック・フォーサイスの小説に出てきそうな感じはしているなぁ。(笑)

独り言


今日は、「グレゴリー・ベイトソン:7月4日の命日に」について書いておきましょう。

第二次大戦中の仕事に注目してみる

 1980年の74日にグレゴリー・ベイトソンは76歳で亡くなってしまったのですが、今日はベイトソンの少し毛色の違った足跡について書いておきましょう。
 
 ベイトソンの人生の前半を振り返るとおおよそ以下のような感じになります。[1]

1904
遺伝学者ウィリアム・ベイトソンの三男として英国グランチェスターで誕生。グレゴリーの由来は遺伝学者グレゴリー・メンデルより命名。後に長男が第一次大戦で戦死、次男が父の期待へのプレッシャーから自殺。父の期待が三男ベイトソンに集まる。
1925
英国ケンブリッジ大学にて自然科学の学士号を取得
1926
「アカアシ・ヤマウズラの羽模様に見られるいくつかの変異について」を執筆。
1927
英国ケンブリッジ大学大学院にて人類学を専攻。
1929
この年まで、ニューブリテン島、ニューギニア島でフィールドワークを行う。
1933
1931年から1933年までニューギニアでフィールドワークを実施、この成果を著作「ナヴェン」(1936)年に出版。
1936
最初の妻となる人類学者のマーガレット・ミードと結婚。
1938
1936年から1938年までバリ島でフィールドワークを行う。カメラと16mmを駆使し、膨大な量の映像資料を獲得、写真を資料とし『バリ島人の性格』(1942、ミードとの共著)を発表する。この時、バリの司祭で用いられるトランス状態について催眠療法家のミルトン・エリクソンに書簡を送り相談する。
1939
渡米。ミードとの間に長女メアリー・キャサリン・ベイトソンが誕生する。
1942
合衆国政府戦略局(OSS、後のCIA)に勤務、人類学的見地からインドの植民地政策、日本軍宣伝放送による撹乱に従事。

つづく

それでベイトソンだけではなく第二次大戦中に米国政府戦略局が人類学者を招聘して敵国民の性格などを分析していたわけですが、特にベイトソンについては以下のような資料が公開されています。

 
 具体的に何をしていたのか?についての報告書は未だ公開されていないようで詳細を知ることは出来ないのですが、これに関連してベイトソンの妻だったマーガレット・ミードの先生として人類学者のルース・ベネディクト[2]があげられるわけですが、第二次大戦中に日本人の性格を研究し、おそらく戦後の日本の占領政策に影響を与えている「菊と刀」[3]は一般書店でも手に入れることができるのでこれから推測するしかないのでしょう。

 個人的にはちょっと、と首をかしげたところもあるわけですが、時代背景などを考えてもこれはこれで仕方のないことなのでしょう。

(つづく)

 文献
[3] http://www.amazon.co.jp/dp/4061597086/


記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com

0 件のコメント:

コメントを投稿