2012年12月25日火曜日

リフレーミングについての考察(その4)

                                 

 家族療法や短期療法で活用するリフレーミングは何を対象にして使うのか?と考えると当然クライアントの認識の枠組ということになるのでしょうが、実際にこの枠組をどのように捉えるのか?を考えると結構深いところに行き着くのですよねぇ。(笑)

独り言


今日は、「リフレーミングについての考察(その4)」について書いておきましょう。

リフレーミングの難しさは何か?

 元々心理療法の一つの流派である家族療法から派生した主に言語を使ったリフレーミングについて書いておきたいと思います。[1][2]

リフレーミングとは元々、セラピストがクライアントの持つ認識の枠組を想定してクライアントの話すコトバを聴いて、そしてセラピストが自分のコトバを通じてクライアントの認識の枠組に何らかの影響を与える技法と定義できるでしょう。

リフレーミングが上手く決まれば、文字通りクライアントの持つ認識の枠組あるいは、知覚や認識のプロセス自体が変化することになる、簡単に言うと物事の見方や感じ方そのものが変わるわけですが、実はここに論理的な飛躍が存在しているということもあります。

構成主義的に考えるとコトバは知覚や認識の単なる補助線でしかなく、コトバと話し手の間にある関係、つまり、コトバと話し手の持つ質感を伴ったイメージやそこにある意味の間に因果関係は存在していないということに行き当たることになります。これは、セラピスト側からするとクライアントのコトバをこう聴けばかならず100%クライアントの持っている枠組が分かるということもなければ、逆にこういう話をすればかならずクライアントの枠組に影響を与えるという話法もそこに存在していないという点があげられます。

何をリフレーミングの対象とするのか?

心理療法家のミルトン・エリクソンに影響を受けている家族療法家や短期療法家が何をリフレーミングの手がかりとしたのか?を考えると非常に興味深いところに行き着きます。

比喩ですが、リフレーミングは合氣道の投げ技のようなところがあります。これは相手の手を取ったり、襟首を掴んだり・・・・ということになるわけですが、リフレーミングの場合相手のコトバの何を掴んで投げたら良いのか?と考えると非常に深いところに行き着きます。

·        リフレーミング対象を単語だけで捉えない

最初に日本だと「リフレーミング辞書」なるものをネットで見ることが出来るのですが、個人的にはこういった発想はあまりお勧めすることはできません。その理由として一つは、リフレーミングの対象が相手のネガティブと思われる単語だけを対象としていること。つまり非常に局所最適な視点からだけ判断されていること。一つは、視点が忘れられていること、つまり、ここでネガティブと判断しているのはリフレーミングするほうの判断であってリフレーミングされるほうの判断が無視されているところです。

通常コトバの意味は文脈とそれを使っている人の枠組で決まってきます。つまり文脈を無視してネガティブ/ポジティブと単純な二元論で判断するのは問題がありますし、このネガティブ/ポジティブも一般化によって為されたところから判断しているのも気になるところというわけです。つまり、あなたのポジティブはわたしのポジティブではない可能性があるわけですし、世間一般のネガティブは私のネガティブではない可能性がある、またその状況でのネガティブはネガティブではない可能性もあるというわけです。また、コトバは本来質感を伴うものですから、単純にポジティブ/ネガティブと言われると、それは儲かるのですか?儲からないのですか?のように非常に単一的な枠組から活用されているようにも思えてきます。

·        「地図はそれが示す土地そのものである」を対象とする

それでは家族療法家や短期療法家はリフレーミングの対象をクライアントのコトバの中からどのように捉えていたのか?という疑問が起こります。

一般意味論の創始者であるアルフレッド・コージブスキーはその著書「Science and Sanity(科学と正気)」で、「地図はそれが示す土地そのものではない」つまり「コトバはそれが指すものごとそのものではない」と言ったわけです。

それで、逆に言うと人は「地図はそれが示す土地そのものである」と誤認しやすい生き物であるということの裏返しでもあるわけであり、こういった誤認をリフレーミングの対象にして、これを解消する方向で活用してきたのだろうなと考えているわけです。つまり、もっというと、本来は「地図はそれが示す土地と同じではない」と認識していなければならないのに「地図はそれが示す土地そのものである」と捉えているその認識の構造(構造主義的に考えると)がリフレーミングの対象となってくるということになります。

例えば、以下で書いたように、夫は「コーヒが不味い」という事実を述べたつまりが、文脈によっては、この会話の相手である、妻は、自分の人格が馬鹿にされているのではないか?と混同してしまうようなことが起こる場合があります。


もちろん、上の例の場合は、治療対象を夫の認識とするのか?妻の認識とするのか?それぞれの関係性とするのか?は色々考えられるところですが、すくなくともここには「地図はそれが示す土地そのものである」という誤認の構造が潜んでいるということになってくるわけです。

もうひとつは以下のリンクで書いた「雨が降ると、いつも憂鬱な気分になります」というのも「地図はそれが示す土地そのものである」と考えている例にあたると思います。


それで、今日の結論はリフレーミングの場合は相手の単語に着目するのではなく、一般意味論的に考えると「地図と土地」の混同に着目するというのがひとつのやり方ということになってくるわけです。

余談ですが、構造主義ではなく構成主義的に考えるとここに認知言語学が出てきて、その事象や出来事をどのカテゴリーに分類されているのか?に着目してクライアントの話を聴くということになってくると思いますが、これはまた別の機会に考えることにしてみたいと思います。

もちろん、リフレーミングは心理療法家のミルトン・エリクソンらの暗黙知を統語論や意味論や語用論などを駆使して形式知取り出しているところがあるわけですが、これって積分して面積を求めているようなところがあるため実体と同じか?と言われるとそうではないところが出てきてしまうのはある意味仕方ががないところでもあるのでしょう・・・・・・・まぁ、「地図はそれが示す土地と同じではない」ではないですが、「モデルは人間そのものではない」・・・・という当たり前のオチがあるのでしょうねぇ。(笑)

(つづく)

 文献

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