2013年1月3日木曜日

パラドクスの3つのパターン

                                  

個人的には「パラドクスと病理」の関係を究明したい、というより「パラドクスとあそび」とか「パラドクスと創造性」とか「パラドクスとユーモア」とかの関係を追及したいなぁ・・・と(笑)。

もっとも、ベイトソン関係の論文を読んでいると「何とかと、何とかは紙一重」というのがよく分かってくるわけで、喜劇と悲劇はどの視点から見るか?の違いでしかないので実はどちらに転んでもやらなければいけないことにはあまり違いがないのかもしれませんけれどねぇ・・・・(笑)。まぁ、もっと言うと、その紙一重の条件は何か?ということが重要なのでしょうねぇ・・・・・
 
独り言


今日は、「パラドクスの3つのパターン」について書いておきましょう。

パラドクスはパラドクスから、パラドクスを超えるパラドクスへ・・・

 以下のリンクで書いていますが、ベイトソンの「世の中の主たる問題は、自然の摂理と人の思考の差異によって生じる結果である。」というのはかなり意味深です。


 ありていに言えば、自分が石ころでそのあたりに転がっているだけ、つまり認識や思考を持っていなければ、只々自然に溶け込んでいるだけで何の問題も起こらないということになってきます。

 しかし、人は事実を知覚し、認識し、それぞれの人の枠組のもとでその事実を解釈し何か意味を持つということになってくるわけです。つまり、その事実と解釈、あるいは事実と意味の間に違いがあるためにここにパラドクスが生じる原因にもなるということになってきます。

 それで、誰しもが、ヘンリー・デイビッド・ソローの「森の生活」[1]のように山の中で一人で暮らしているわけでもないのでしょうから、さらに、ここに人間関係が入ってくることになります。

 もちろん、個人的には何かの問題で特に困っているわけではないのですが、ベイトソンの言う自然の摂理と思考の差の間にどのようなパラドクスが生じる可能性があるのか?について書かれている「Patterns of Interact ional Paradoxes [2]を読むと純粋に面白いと思います。

 この中では基本的に人と人とのコミュニケーションにおけるパラドクスから出発し、その特殊な状態としてのダブル・バインド、さらにダブル・バインドのようなものの説明へと続きます。

 もちろん、人と人とのコミュニケーションは「文字どおり」というわけにはいかず、以下のリンクで書いたように


 単なる「コーヒーが不味い」という事実の記述が抽象化される過程において、いくつもの意味を持つということになってくるわけです。

 それで、もとに戻るとパラドクスが、1)構造的なパターン 2)関係性のパターン 3)コンテクストのパターンの3つの切り口から説明されていますが、このあたりがパラドクスの状態とそうでない状態を分ける重要な鍵になりそうだなということが分かってくるわけです。

 もちろん、パラドクスを解消しようと考える場合は、単純に問題志向では対応できず、創発的に「現在のパラドクスを超えるパラドクスをつくる」[3]必要があるわけですが、このあたりが面白いところでもあり難しいところでもあるのだと思います。
 
(つづく)

 文献
[2] http://goo.gl/Wv2uK


記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com


0 件のコメント:

コメントを投稿