2013年2月27日水曜日

エリクソニアン・ヒプノセラピーのサイバネティック・モデル



 サイバネティックスというのは元々、人工知能とかサイボーグをつくろうみたいな試みから始まっていて、このあたりの話を始めると、そんなの出来るの?という話を含めて、強いAIとか弱いAIみたいな話になってくるわけです。

 それで、グレゴリー・ベイトソンの場合はこういった学問的な知見をメガネに心理療法家のミルトン・エリクソンの技法を眺めてみるというような感じで使っていたのだと思われますが、サイボーグをつくろうみたいな大それた話ではないのですよねぇ。

 で実際には、エリクソンの技法のなにがしかを形式知化することに成功して短期療法のベースになったという点は大きいのだと思います。もっとも、ベイトソンの構想がもっと変な方向に行っていて、エリクソンの心理療法のロジックを組み込んだ心理療法ロボット・量産型エリクソン一号みたいなものが出来ていても困ったのでしょうけれど(笑)。

 もっともエリクソンの場合は外的に起こった偶発的な出来事をクライアントとの関係性に取り込むという「ユーティライゼーション」のロジックが必要なので、普通の人間がやっても結構難しいロジックを形式知してロボットのアルゴリズムに載せなきゃいけなくなるのでしょうけどねぇ。(爆)

 独り言


エリクソンの技法をサイバネティックスのメガネで相互作用を見る

 「心理療法家のミルトン・エリクソンの技法特徴は何か?」と言われると、そのほとんどが暗黙知であり、エリクソン自身がそれを形式知、もっと言うとフレームワークなどにして残さなかったということがあげられるでしょう。

以下のリンクで書いたアーネスト・ロッシとの三部作の中に若干、理論(theory)という言葉が出てきますが、これはきちんと体系化されている理論なのか?と言われると少し心もとないところもあるわけです。


 それで、喩えるならば、エリクソンは恵利句損亭の落語の師匠であって、その弟子になるためにはまず内弟子になって、寝食を共にし、箸の上げ下ろしから言葉遣いまで四の五の言わずにとにかく真似をしてみて、暗黙知を暗黙知として学習する必要があった、そして何年か経つと師匠みたいなことが出来るようになって、真打ということになっていたようなところがあったわけです、恵利句損亭財句とか恵利句損亭義理眼とか恵利句損亭御藩論とか・・・・(笑)。つまり、野中郁次郎先生のSECIモデルからすると「社会化」というプロセスで示されているような学習形態をとっていたということになります。

 それでも世の中は良くしたもので、当時米国で研究をしていた人類学者のグレゴリー・ベイトソンというとても賢いイギリス人おり(最近は、ノラのお父さんって言うほうがしっくりくるなぁ-笑)、この人がミルトン・エリクソンの技法を形式知化するためのフレームワークとして米国の東海岸で人工知能やサイボーグみたいな分野として研究されていた「サイバネティックス」[1]という学問の知見を持ち込んで、これをひとつのメガネとしてミルトン・エリクソンの技法を見て特に認識論に還元して形式知化を試みることになります。まぁ、ざっくり言うとこれが短期療法のベースになったと考えて良いのでしょう。

http://ori-japan.blogspot.jp/2011/08/blog-post_14.html
http://ori-japan.blogspot.jp/2012/11/blog-post_30.html

それで、以下のリンクで一般意味論をメガネにエリクソンの心理療法を眺め、主に認識の「事実と解釈の違いの区別」つまり「地図とそれが示す土地」の違いについて書いたわけですが、サイバネティクスの場合は主に相互作用をどのように考えるのか?のモデルになっていると思います。


 もちろん、すべての暗黙知を形式知化なんて出来ないわけですが、少なくとも、催眠とか心理療法などわけの分からない分野を科学として扱えるようにはなったというのは意味があることなのでしょう。もちろん、自然科学なのか社会科学なのか?と言われると社会科学なのでいつも再現性があるか?と言われると、ないねというところもあるのでしょうし、暗黙知としてのわけの分からない部分というのは時代がどのように変わろうがわけの分からないままで残っているという構図は存在しているわけで、その部分は師匠から弟子へ暗黙知が暗黙知として伝えられるというのがあるのだと思います。

 それで、枕が長くなりましたが、「A Cybernetic Model of Ericksonian Hypnotherapy[2]というのを読むと個人的には物凄く面白いなぁと思うわけです。

 ここでは、(1)理論と実践の相互関係の重要性(2)エリクソニアン催眠療法をサイバネティクス・モデルで示すということが書かれているわけです。

 もちろん、ここで面白いのは理論というのはあくまでも学問的なフレームワークを立てて形式知化したもので、ここではそのひとつとしてサイバネティクスのモデルを立てて観察を帰納して取り出した理論ということになってくるわけです。もちろん、この理論を現場で演繹的に適用しても当てはまらないところはあるわけで、このように理論どおりに行かないところについてさぁそれをどうしよう?と考えると、実践家としては何とかしないといけないわけで、その対処について考えると「学習」という視点からはかなり面白いのではないか?と思います。

 また、エリクソンの心理療法はクライアントと強調したコラボレイティブなアプローチだと言われているわけですが、武道やダンスではないのですが、それぞれの出方が相手に影響を及ぼすような状態をどのように形式知化したのか?もちろん、答えを言えばサイバネティクスの知見を使ったということになるわけですが、こういったことを考えながらこのエッセーを読んでみると面白いのだろうなと思っています。

 もちろん、サイバネティックスだけが理論化のための唯一の理論というわけではないことは言うまでもないことですが、学問的なフレームワークを使った形式知には色々な可能性があるということなのだと思います。

(つづく)

文献

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