2013年2月28日木曜日

パラドクス介入と倫理



 以前、心理療法家のミルトン・エリクソンは自身の心理療法の技法を形式知として残しておらず、その時代、時代のいつも最新の哲学なり科学的なフレームワークで形式知化してもらえるために、逆説的に形式知化された手法はいつも最新だという話を書いた記憶があります。

 それでエリクソンの場合は暗黙知的な技法としてクライアントが混乱したり困惑するような結構トリッキーな課題を出すパラドクス介入を行ったりもしたわけですが、このあたりがどの程度だったら倫理的に許されるのだろう?みたいなことも結構重要な課題だったりするわけです。

 もちろん、ミルトン・エリクソンの心理療法は特定のカタがないというカタを持っているということもあって、これを比喩的に説明すると「そもそも秩序の無いフリー・ジャズのような心理療法にどのようにすれば倫理規定が付けられるのか?」みたいな疑問になってくるわけです。

それで、そもそも秩序がないという秩序がフリー・ジャズじゃないのか?みたいなわけのわからない話になってくるわけで、カタがないカタを持っている心理療法についてどんな倫理規定を適用すれば良いのだろうか?と考えると、エリクソンの暗黙知をどのような形式知で取り出してそれについて倫理を考えるみたいな話になってきて、ある意味、宇宙を巻き込んだ壮大なストーリーに発展してしまうということになるわけです。(笑)

 独り言


エリクソンのパラドクス介入

 以下のリンクで書きましたが、MRIのポール・ウォツラウィックの言う認識や行動の第二次変化(Second-order Change)を支援する場合、クライアントに意図的に二項対立の課題を出して、その二項対立を超えてもらうような、パラドクス介入にならざるを得ない状況があります。


 もちろん、パラドクス介入はある意味、セラピストがニコニコしながら、認識論的にクライアントをダブル・バインドの谷底に突き落とすような格好にもなっています。

それで、心理療法家のミルトン・エリクソンの手法は時にクライアントにパラドクス介入を行なっていますし、基本的に第二次変化を支援する介入はパラドクス介入であると考えることが出来るでしょう。もちろん、エリクソン場合は明示的ではなく、暗黙的にメッセージとメタ・メッセージが対立するような使え方をしている場合があります。

 それで、パラドクス介入の例を考えてみましょう。

 例えば、以下のリンクでは「妻のアルコール依存症」に対して、妻がボトルを部屋に隠して、夫が一定時間見つけることが出来なければ大手を振って飲んで良いという介入になっています。


 もう一つは爪を噛む子供にダブル・バインドを使った介入を行なっています。


 比喩ですが、パラドクス介入の場合は、ダイエットしたいと言っている人に条件付きで大食いしないさい、とか、禁煙したいという人に条件付きでどんどんタバコを吸いなさいというような現在のパターンを崩すために敢えて逆の指示をするというようなことを行う介入になってくるわけです。

 もちろん、これは思いつきというより、現在の悪循環をきちんと特定して、その悪循環をどのように止めたらよいのか?ときちんと見立てを行う必要があるわけですが、一見すると「おいおい、そんなことやって大丈夫なのかよ?」というような感じの介入でもあるわけです。もちろん、ここで2つの疑問が湧くことになります。一つはこれが本当に悪循環のパターン崩しにつながるのか? もう一つは、倫理的に大丈夫なのか?

パラドクス介入の倫理


 それで、こういったパラドクス介入に対して倫理をどのように考えるのか?というのは結構重要になるわけですが、ネットに落ちていた「The Ethics of Paradox: Cybernetic and Postmodern Perspectives on Non-Direct Interventions in Therapy[1]というミルトン・エリクソンとかMRIとかミラノ派などのパラドクス介入を想定して倫理ってどう考えたら良いのか?について書かれたエッセーを面白おかしく読んでいたわけですが・・・・結論だけ自分のメモも兼ねてサマっておくと以下のような感じになっています。

 で、著者が主張しているのは以下です。もちろん、この前提として心理療法を第二次サイバネティックス、ポスト・モダニズム、第二次家族療法のフレームワークから見ているというのがあります。

http://ori-japan.blogspot.jp/2012/06/blog-post_27.html


·        (短期療法に関する)現在の倫理の問題について述べるためには、第二次サイバネティックス、ポスト・モダニズム、そして第二次家族療法と呼ばれている認識論的な断絶について区別を付ける必要がある。
·        第二次サイバネティックス、およびポスト・モダニズムは観察対象と観察者を含んでいる。しかし、サイバネティックスの比喩だけが、物事の循環を説明する。
·        その本質からすると、ポスト・モダニズムも第二次サイバネティックスもパラドクス介入を取ることを禁止してはいない。パラドクス介入を取ることは、特殊な見解からの現実、つまり何をするべきで何をするべきではないか、にさらされることになる。しかし、ポスト・モダニズムの二項対立を崩していく脱構築は、それをトリッキーだと思っている(アンポストモダニズムな)人にとっては非倫理的な介入だと映ってしまうことになる。これをここで論じていること自体がパラドクスでもある。
·        パラドクス介入の使用に対する(基準の)揺らぎが起こったのは第二次療法の発展にともなって起こってきたように思われる。第二次療法とは一次的には理解できたような思えるが、意図的に気まぐれな信念のクラスターのラベルであること自体がパラドクスになっている。


 要は、著者は短期療法の倫理というところを1)サイバネティックス2)ポスト・モダニズム3)第二次家族療法のそれぞれの視点から見ています。それで、サイバネティックスって基本的には相互作用を記述するだけなので、ここに倫理もへったくれも判断しようがない。これが1点。それで、ポスト・モダニズムはデリダの脱構築じゃないけれど二項対立を崩していくものだからこれが普通と思っている人はOKでもそれについて行ってない人は倫理的じゃないと思われるというのが2点目。さらに、第二次家族療法っておそらくフリー・ジャズみたいなものだから、元々秩序のないものに倫理って矛盾しているよねぇというのが3点目。ということになってきます。

 もちろん、ISO26000 CSRじゃないけれど、これが文章で記述できるようなものだったら良いのですが、元々短期療法ってクライアントに禅問答を解いてもらって、新しい認識や行動を身につけてもらう必要があるので、やっぱりこのあたりの倫理規定みたいなものをカッチリつくるのは難しいのでしょうねぇ・・・・というのが結論になってきます。倫理規定みたいなものでカッチリしたらそれはネガティブ・フィードバックによる制御でポジティブ・フィードバックが使えないもんねぇ(笑)。

(つづく)

文献
[1] http://www.anzjft.com/pages/articles/973.pdf

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