2013年2月3日日曜日

自己重要感!?

                               

 個人的に思うのは「自己」っていうのを強く意識している時っていうのはあんまり幸せじゃない時じゃないのかなぁと思うわけなのですよねぇ。

 色んな人とワイワイガヤガヤ楽しくやっていて、まわりとか社会とかとつながっていると感じている時は、ちっちゃい「自己」なんて意識することはないわけだからねぇ~(笑)。

 それと、そのあたりの自己啓発みたいな自己重要感が胡散臭いと思うのは直接的に相手にその旨を伝えるところですかねぇ。まぁ、心理療法家のミルトン・エリクソンじゃないけれど日本人だったら普通は相手を重要に思っているというメッセージは間接的なメタ・メッセージとして伝えるものでしょうからねぇ。(笑)

 独り言


今日は、「自己重要感!?」について書いておきましょう。

本当に幸せなのは自己を超えて何かに繋がって我を忘れている時

 ネットで自己重要感という言葉を見かけますが、これは一般的な心理学などの言葉ではないようです。それで、この自己重要感というのを高めよと単純に言っている、いわゆる「自己啓発」は個人的には嫌いなのですが、この「自己」というのを考えると非常に深いところに行き着きます。

 まずは、個人的に思いつく自己重要感というのはカルロス・カスタネダの自己重要感なのですが、巷でいう「自己重要感を高めよ」とはまったく反対のことを言っていることに気がつきます。[1]


Self-importance is our greatest enemy. Think about it - what weakens us is feeling offended by the deeds and misdeeds of our fellowmen. Our self-importance requires that we spend most of our lives offended by someone.

自己重要感はわたしたちのもっとも手強い敵だ。考えても見たまえ、私たちを弱らせているのは人間同士の行為や悪行からくる不快な気持なのだから。自己重要感を持つことで人生の大半を誰かから受ける不快な気持で過ごすことが求められることになるわけだ。

 
結局、自己を重要だと思えば思うほど、他者との溝は一層深まる・・・・それで、カスタネダの小説に登場するドン・ファンは自己を意識させる内部対話を止めてただ今ココの純粋経験にだけあれ、というような禅みたいなことを修行の重要性を説くことになります。

 さて、西洋から来た心理学みたいなものは基本的にデカルトの世界観を引き継いでいるためか基本は「我思う故に我ありに我あり」というように主客の間に明示的に線を引き、自己と他者が区別されるといった特徴があるように思います。それで、「自己重要感を高めよ」といってしまうと、主客が切り離された状態で自己、や自我だけが強調されてしまう方向になってきます。いわゆる、「自分が、自分が・・・」というかなり鬱陶しい状態です。

 それで、カスタネダに限らず心理療法家のミルトン・エリクソンの暗黙知をベイトソンらが形式知化した短期療法は、以下のリンクで書いたようにベイトソンのパラダイムで眺めているためにここに世界観のパラダイム・シフトが伴っています。


デカルト(近代科学)の世界観
ベイトソンの全体論の世界観
事実と価値は無関係。
事実と価値は不可分。
自然は外側から知られ、諸現象はそのコンテクストから取り出され、抽象化されて吟味される(実験)。
自然は我々との関係の中で明らかにされ、諸現象はコンテクストのなかでのみ知ることが出来る。(参加する者による観察)。
自然を意識的、経験的に支配することが目標。
無意識の精神が根源にある。叡智、美、優雅を目標とする。
抽象的、数学的な記述。数量化できることのみが現実。
抽象と具象とが混合した記述。量よりも質が第一。
精神は身体から、主体は客体から分離している。
精神/身体、主体/客体はいずれも同じひとつのプロセスのふたつの側面。
直線的時間、無限の進歩。原理的には現実を完璧に知り尽くすことができる。
循環的(システムの中の特定の変数のみを極大化することはできない)。原理的に現実の一部しか知ることは出来ない。
ABか」の理論。情感は生理現象に伴って二次的に生じる現象である。
ABも」の理論(弁証法)。情感は精緻な演算規則を持つ。
<原子論>
<全体論>
1.物体と運動のみが現実。
1.プロセス、形、関係がまず、はじめにある。
2.全体は部分の集合以上のものではない。
2.全体は部分以上になる特性を持つ。
3.生物体は原理的には非有機体に還元可能。自然は究極的には死んでいる。
3.生物体、もしくは<精神>は、構成要素に還元できない。自然は生きている。
 
それで、さらにベイトソン的な「自己」というところを考えると以下で書いた「盲人」の話に行き着くわけですが、自己というのは単なる感覚、その境界が固定されているわけではないということになってきます。もちろんこのあたりを定式化しようと思うとシステム論としてはオートポイエーシス論になってきます。


 それで、このあたりは、ミルトン・エリクソンが「私はキリストだ」という男にトンカチを渡して、「あっちに行って、みんなの大工作業を手伝っておいで」と言って大工作業を手伝わせたところ徐々に社会性を取り戻していくという話があったことを思い出していたわけですが、[2]所詮、「自己」なんて周りのつながりでしか定義できないわけでしょうから、その程度のもの、というのようにも思えてきます。

 そう考えると、私が「自己啓発」の連中が嫌いなのは、「私が、私が、俺が、俺が・・・」というのが超鬱陶しいと感じるからなのでしょうねぇ~(笑)。家族の中でも、会社でも、地域社会でも普通に暮らしていれば、「私が、私が、俺が、俺が・・・」というのが強調されるのはある意味異常事態でしょうからねぇ~(笑)。

 また、余談ですが、ソリューション・フォーカスト・アプローチの「リレーションシップ・クエスチョン」はとても大事ですよねぇ。

(つづく)

 文献
[2] http://www.stephengilligan.com/interviewA.html


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