2013年6月30日日曜日

一般意味論:ソフト・サイエンス vs ハード・サイエンス



 なぜ、一般意味論に惹かれるのか? というのをふと考えていたわけですが、「General Semantics vs. The Entire western system of Rationalizations」というエッセーを読んでいて、そのかなりの部分が氷解してところがあるわけです。

 例えば、「50%の確率で野垂れ死に」「48%の確率で骨折り損のくたびれ儲け」「2%の確率で宝の山を掘り当てる」という旅に出るか?という状況を考えてみましょう。

 この場合、第一段階として、この旅に出るか出ないか?といった決断があるでしょう。

 さらに、旅に出るということを選んでしまうと、多少の計画はあるものの、道中そこで起こる不測の事態に日々対処していかなければならないでしょう。

 もちろん、それにどのようなポリシーで対処するのか?を考えると、主体である旅人が、どんなアイデンティティを今持っていて、どのような価値観で、その不確実性に対処し、決断をしようか?というようなことも考えていかないといけないのだと思うわけです。
 
 その意味では、「不確実性がある中でどのように決断していくのか?」、「不確実性にどのように対処していくのか?」、あるいは、種々の出来事に上手く対処できるように「自分の価値観やアイデンティティをどのように育てていくのか?」について書かれている理論や方法論みたいなものが欲しくなるということでもあるわけです。

 そう考えると、そのヒントになるようなことを提供している方法のひとつが一般意味論だったわけですが、このように考えると個人的には非常に納得することになるわけです。もちろん、相対的に考えるとこれだけが唯一の方法論でないことも確かなのですけれど・・・(笑)。
 

 独り言


「確かさ」と「アイデンティティ」

 Wikipeidaの「ソフトサイエンス」を参照すると以下のようなことが書いてあります。[1]


ソフトサイエンス(英: soft science)とは、将来を予測し、計画するために必要な手法のこと。目に見えない技術とも言われる。また、問題を解決したり、人間や自然、社会の要求を実現するために、既存のあるいは手持ちの学問手段をどう組み合わせて使うかを考えて体系化したものである。ハードサイエンスは数量化できないものも可能な限り数量化しようとしたり、数量化できるものだけを対象に考えるのに対して、ソフトサイエンスでは価値観など数量化できないものを重要な対象とする。


それで、一般意味論についてのエッセーである「General Semantics vs. The Entire western system of Rationalizations[2]を読んでいたわけですが、はたと何か閃いたわけです。

 将来に実現したことに思いを馳せると、結局、将来は不確実性に満ちあふれていています。例えば、過去から現在までに身につけた常識のようなことで予測して計画しても、大体の場合、想定外の出来事が一つや二つ起ってこれが連鎖的に状況を変えていくようなことになるため、そもそも予測は当たらず計画変更を余儀なくされるということになる具合です。

 それで、結局は課題として「不確実性」にどのように対処するのか?ということと、対処の主体である心も体ももった人間として「アイデンティティや価値観」をどう育てていくのか?ということになってくるわけです。

 もちろん、不確実性に対処する方向性というのは色々あるでしょう。

 例えば、確実性を出来るだけ上げるために出来るだけ多くのデータや情報を集める。もちろん、この方法も悪くはないのですが、やはりデータや情報の収集には限りがあります。

 次に、「世の中は不確実だということについて確信する」この場合、ある種の諦めのような感じがしないでもないのですが、場合によっては「根拠のない自信だけを持つ」というようなことにもなってしまうので、もう少しなんとかしたいところ。

 で、最後はやはり心理療法のミルトン・エリクソンが活用したユーディリゼーション技法ではないのですが、身の回りの変化を自分の変化として取り込む、あるいはどんな出来事が来てもそれを活用できるという確信を持つことのようにも思えてきます。


  で、この延長として不確実性に対処するには、五感で認識出来る外的世界の状況に対して、もっと色々なことに気づけるようになりなさい、また、自分の中の世界では、事実きちんと認識してそれによい意味を与えるアイデンティティや価値観を持ちなさいということになるように思います。

 余談ですが、一般意味論では外的世界と内的世界の状況から生まれる認識主体の反応を意味反応(Semantic Reaction)と定義してそこに含まれる色々な要素の全体性を担保していることになります。つまり、私たちは色々な要素の総合から生まれる意味に反応し、決断、行動しているという具合です。

 それで、このあたりは、外的世界と内的世界の循環をきちんと考える、ディカル構成主義みたいなところや、仏教的認識論のようなところがあるわけですが、西洋的な二元論を超えることを目指した一般意味論の深いところが垣間見えてくるようにも思ってくるわけです。

(つづく)

文献


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