2013年11月30日土曜日

コーチングにおけるパラドクス介入と倫理性



 コーチングの倫理規定の難しさは、パラドクス介入(現在の課題であるダブル・バインドに別のダブル・バインドをぶつけるようは介入)とか難行苦行が論理的にどこまでなら許されるのか?

という課題なのですよねぇ。時に、こういった介入が奇想天外なこともあるわけですが(笑)。

 で、ここで言っているコーチングは、心理療法家のミルトン・エリクソンから派生する短期療法の技法を踏襲していますが・・・・・

ひとり言


コーチングにおけるパラドクス介入と倫理性

 今日は、コーチングと倫理規定について書いておきましょう。

 ここでは、通常コーチングで言われているように「クライアントの秘密は厳守しましょう」といった当たり前のことを強調したいわけではありません。例えば、クライアントとのセッションの内容を許可無くブログに書いたりしない、とかクライアントの利益に反することを無理強いしない、というのは当たり前のことで、これを守っていないとしたら単なるアホだから。

 さて、本題へ、ここで前提とするのは、以下のリンクでも書いたように、クライアントの認識や行動がMRIのポール・ウォツラウィックの言うように第二次変化を起こすには、やはりパラドクスが必要なことと関係してきます。

 つまり、比喩ですが、会社の次期後継者と見なされる有能の人材が子会社へ出向させられて子会社の立て直しを命じられるとか、知らない土地で工場をたち上げてこい、と言われるような、今までの枠組みを突破するための(場合によってはパラドクスをともなった)難行苦行チックな課題が必要ということになるわけです(笑)。もちろん、クライアントが今抱えている課題がダブル・バインド的にどん詰まりの状態であれば、今後の認や行動が第二次変化する要件としては言うことなし、となってきます。


 例えば、以下のリンクで書いたように、ミルトン・エリクソンがアルコール依存症の人に介入した例。一滴も飲むなではなく、奥さんがボトルを言えのどこかに隠して、1時間以内に夫がそれを見つけることが出来なければ、依存症の奥さんはボトルを全部開けても良い、と言っているけれども、ここでのテーマは、このような介入方法が倫理的に O.K.なのか? あるいは、この夫婦は釣りに行くのが大嫌いだと分かっているわけですが、そこにあえて「釣りに行きなさい」と命じるのは倫理的なのか? そういう非常に微妙なお話しになってくるわけです。


 これと同じような話でシドニー・ローゼンの著作の中に、以下のような話がありました。

病気のために退職した警察官が私(ミルトン・エリクソン)に言いました。
「私は肺気腫もあるし高血圧もあるし見ての通り太りすぎだ。飲み過ぎるし食べ過ぎる。
仕事に就きたいが病気のせいでできない。タバコも減らしてやめたい。1日にウィスキー1瓶飲むのもやめたい。私は分別を持って食べたいんだ」

私は「結婚しているのですか?」と尋ねました。
彼は「いや、独身だ。いつもは自分で料理をしているんだが
街角に手頃なレストランがあってよく行くんだ」と答えました。
「なるほど。街角に食事のできる手頃なレストランがあるわけですね。タバコはどこで買うのですか?」
彼は一度に2カートン(20箱)買っていました。
私は「まあ言い換えると、あなたは今日の分だけでなく明日以降の分まで買うわけですね。料理も自分でするということですが買い物はどこでするのですか?」と尋ねました。

「運のいいことに街角に小さな食料品店があってそこで材料やタバコを買うのさ」
「お酒はどこで買うのですか?」
「運のいいことに、食料品店のちょうど隣にいい酒屋があるんだよ」
「そうすると街角に手頃なレストランと食料品店と酒屋があるのですね。少し走りたいと思ってもできませんね。あなたの問題は非常に簡単です。走りたくても走れない。でも歩くことならできますね。よろしい、タバコは町まで歩いて買いに行き1回に1箱にしなさい。食料品も街角で買わず半マイルか1マイル(1.6km)歩いて別の店に行き毎食ごとに必要な量を買いなさい。これで1日3回は散歩ができます。お酒は欲しいだけ飲んでも構いません。1杯目は少なくとも1マイル先のバーで2杯目が欲しければもう1マイル先のバーで飲みなさい。3杯目が欲しければさらにもう1マイル離れた別のバーを探しなさい」

彼は私をにらみつけ、口汚くののしり、大変怒って立ち去りました。1ヵ月後、新しい患者がやってきました。

彼は「退職した警官があなたの事を教えてくれました。彼はあなたの事を、自分が何をすべきかを知っていた唯一の精神科医だと言っていました」と言いました。
例の警官はその後、タバコを1カートン買うことはできなくなりました!

そして、食料品店まで歩くことは意識的な行動であるとわかったのです。自分でコントロールしたのです。さて、私は彼から食べ物もタバコも酒も取り上げませんでした。
私は歩く機会を与えただけです。


これも、ある意味、パラドクス介入になっていて、クライアントは課題を与えられた直後に怒りだしているということがあります。しかし、クライアントは自分の意志でコントロール可能が行動をコントロールした結果、タバコとアルコール依存症、そして過食からも抜け出すことに成功しているというところがあるわけです。

 それで、再度、本題に戻って「パラドクス介入や難行苦行はどこまでが倫理的か?」、実はこの問題は非常に深い話になってくるのだと思います。

(参考)
(つづく)

文献
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