2013年11月7日木曜日

はじめての唯識



 やっぱり、仏教ってサイバネティクス的だぁ・・・・って、時系列的に考えると、サイバネティクスが仏教的なのでしょうけれどもねぇ・・・・(笑)。

 独り言


唯識と視座

  認知科学と仏教の共通点を探った、オートポイエーシスの共同著者の一人であるフランシスコ・ヴァレラ(晩年に中観派の仏教徒に改宗)の「身体化された心 (Embodied Mind)[1]は愛読書なので、個人的には「仏教」というと認知科学のご先祖様みたいなもの・・・・・といった感じで考えているところがあります・・・・。

Youtubeの映像を視聴すると、ダライ・ラマ猊下が「われわれはそれを仏教徒の帽子をかぶって説明し、ヴァレラは科学者の帽子をかぶって説明する」・・・と述べているように、結局は同じ山の頂上を別のルートから登っているようにも思えてくるわけです。


  それで、(仏教ってカテゴリーで一括りにするのはちょっとアレなのはおいておいて)「はじめての唯識」[1]を読んでいたわけですが、個人的にはやっぱり認知科学の視点から読んでいて、なるほどなぁ・・・・と思うわけです。




唯識仏教では、認識するという心の作用が起こるときは、心それ自体が、そのはたらきにおいて四つの領域に分かれる ―― そして、それによって、いわゆる認識作用というものが成立するのだ、と考えたのです。つまり、みられるもの(相分)とみるもの(見分)そして、そのみるということを確認するもの(自証分)とその確認をさらに認知するもの(証自証分)とに分かれるのである、と説くのです。私たちが、ふつう、心の外に厳然として在るものを直接に知覚し認識していると思っている場合も、実は、それは自分の心のなかに変現した相分、つまり、心上に生じたそのものに似た影像にすぎないもので、それを、私たちは認識の対象としているというわけです。


この考え方は、「観察するもの自身を観察する」第二次サイバネティクスや内部観測の考え方につながってくると思われますし、


一般意味論のマルチ・オーディナリティの考え方でもあるわけですし、


ケン・ウィルバーの四象限[3]の考え方にも影響を与えているように思ってくるわけです。

もちろん、だから何なのだ?と言われると困ってしまうわけですが、とりえず人の「意識のモデル」としてはかなり格好の良いモデルということになるように思ってくるわけです。

(参考)
http://ori-japan.blogspot.jp/2013/10/blog-post_28.html

(つづく)

文献

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