2015年12月11日金曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その7)

              

 クライアントとコンサルタントとの関係はどうあるべきか?

 登山者とシェルパ、

 こんな関係がよいのだろうなぁと。


 <ひとりごと>



一介のガイドとしてクライアントに寄り添う

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]


セラピストは教祖ではない
一介のガイドとしてクライアントに寄り添うべし。



 某月某日、早朝某駅、新幹線の窓側席に座る。外は強い雨。窓を伝って水滴が落ちる。

 新幹線が駅を発つ。速度が増す。水滴が窓を水平に流れはじめる。

 一粒の水滴が現れ、流れ、窓枠の外に去る。・・・・別の水滴が現れる。もう一粒の水滴と合い、少し大きな一粒となり、流れ、窓枠の外に去る。・・・・別の水滴が現れる。別の一粒の水滴と合い、ひとつになり、後ろへ流れながら2つの粒にわかれる。そして、窓枠の外に去る・・・・

 枠の前を推し測らない、枠の後もそうだ。上も下もそうだ。結果、範囲が決まる。

 暗喩として連想しない。窓に流れる水滴を見る。そして、少し巨視的にパターンを見る。

 窓枠で設定された世界は小さい。が、窓枠は動く。時間軸が設定され、はじめとおわりが明らかにされる。水滴も動き始める。主観客観は保留しておく。この制約の中で動的な関係性が浮き上がってくる。ベイトソンの「結ばれあうパターン(The patterns that connect.)」はどこにでもある。[2]  ただ、気づいていないだけだ。

   人間関係もパターンだ。ベイトソンなら「結ばれ合うパターン」、日本人なら「縁」と見る何かだ。

 ベイトソンたちは、関係を動的なプロセスとして見た。そして光をプリズムで虹に分解したように、いくつかののパターンを取り出した。

 <水平>な視点で、同じ対称の関係をシンメトリカル、違う相補的な関係をコンプリメンタリー、それぞれが共存している状態をレシプロカルとした。 ウオツラウィックらはこれを発展させて、<垂直>な視点で、メタ・シンメトリカルとメタ・コンプリメンタリーな関係を追加した。メタ・シンメトリカルは、一方がもう一方に同様に振る舞うのを許す、メタ・コンプリメンタリーは、一方がもう一方に自分の責任を示すように許す、となる。[3] 誤解を恐れずに言えば<上下関係>が追加されていることになる。

 極端すぎる例で言えば、メタ・シンメトリカルは子供扱いする相手に、自分を同等に扱うように接する場合。メタ・コンプリメンタリーは、同等に扱おうとする相手に、自分を王様のように大切に扱えと接する場合である。状況に応じてはかなりうざい感じになる。自己啓発などで自分はカリスマだと自称して、相手に自分をカリスマと扱えと言っているような場合は、メタ・コンプリメンタリーが行き過ぎた場合だろう。かなりうざいし、普通の人はドン引きとなる。

 少し前、夜に家のご近所の橋上でドラマのロケを行っていた。ご近所でよくドラマのロケをやっている。おそらくアクセスが良く交通整理が容易だからだ。散歩の途中そこに出くわした。そこで、誰でも知っている有名な女優!?が撮影に望んでいた。(敢えて名前はかかない)ヒントは推定身長 171cm で世間では美人だがお騒がせな人として有名な人だ。

 普通、女優や男優は撮影が終わると、脇に止められたロケバスに隠れるように乗り込む。場合によってはサングラスをかけたり、マネージャらしき人が周りを囲んでがっちりガードするという具合だ。こういう場面を何度も見た。無用なリスクはできるだけ避けるという配慮からだろう。

 また、そこを通った、そこに興味があったからではない。帰路もその橋を通る必要があったからだ。なんと、その女優はそのあたりを一人で歩きまわっていた。ピンヒールにモンロー・ウォークで。もちろん、サービス精神に溢れている、とも考えられるだろう。しかし、私は、この人はメタ・コンプリメンタリーな関係が強い人なのだろうなぁと見立てた。要は、私を女王様として扱え、私に注目して!というメタメッセージが強すぎるのだ。もちろん、普通ではないのが芸能人や女優なのだろう、でも普通の芸能人からも逸脱しているのだ。だから事例としてはとても興味深い。

 個人的には人類学者的な視点での観察するほうの興味が勝ってしまう。そして振る舞いのパターンから推測する。つくっているキャラならよいとして、これが地だとするとこれからもこのメタ・コンプリメンタリーの関係がエスカレーションすると周りと様々なお騒がせを起こすのだろうなぁと・・・・おそらくこの人が周囲とうまくやっていくには、心理療法家のミルトン・エリクソンのような有能なコーチが必要なのだろう・・・・

・・・・・・・・・・

 クライントとコンサルタントの関係はどうあるべきか?

 偶にそんなことを考える。クライアントとミルトン・エリクソンの関係性が参考になるようにも思う。

 エリクソンは壮年期以降非常に有名になった。が、文献を読み込むと、クライアントに対して決して教祖様のように振舞っているわけではないことが分かる。端的に言えば、エリクソンは山登りする時のシェルパのようでもあり、ヘッセの小説「東方巡礼」で隊を目的に導いた召使のレーオのようでもある。主人と執事の関係だ。もちろん、クライアントが主人でエリクソンが執事だ。

 どちらかというとエリクソンから見てメタ・コンプリメンタリーというよりも、クライアントから見たメタ・コンプリメンタリーな関係をつくっている場面もある。もちろん、それが全てではないが。その意味、周りは教祖のように持ち上げているところもあるが、クライアントとエリクソンの関係は違うということが分かると非常に面白いところだ。

 クライアントとコンサルタントの関係にも色々あるだろう。コンサルタントが<鬼軍曹><芸者><太鼓持ち><学者>・・・・スタイルは様々だ。

 が、クライアントとコンサルタント、クライアントとコーチも、時にはエリクソンのような方向に関係を動かすことが必要だろう。少しへりくだる、あるいは間接的に示唆するのでクライアントが気づくということもあるだろう。

・・・・・・・・・・・・

 新幹線が最寄り駅に近づく。社内アナウンスが流れる。

 下車の準備をする。窓を流れる雨粒はもう消えている。

 駅に停車、列車から出る。

 階段を降り、改札を出て、クライント先へ向かう・・・・・雨は上がっている・・・・


(つづく)

 文献
[1]http://micheleritterman.com/Ten%20Points%20Ericksonian.pdf
[2]http://www.imprint.co.uk/books/Bateson_Intro.pdf
[3]https://books.google.co.jp/books?id=QRqsAgAAQBAJ&pg=PA76&lpg=PA76&dq=meta+complementary+relationship+meta+symmetry

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