2015年12月16日水曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その8)

           

 こころを拡げて見たり、聞いたり、感じたりするのは案外難しい。

 いままで身につけた、先入観や思い込みがそれを邪魔をするからだ。

    が、こころが拡がれば、世界が広がるということでもある。

 それには、認識ー行動の相互作用が必要だ。

 結局は、現場で現物を触って何かやって現実を見て枠組みも見直す

 ということだ。

 <ひとりごと>



心を開いて見てみる、聞いてみる、感じてみる

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]


セラピストはクライアントに答えを与える必要はない

心を拡げて、現実を見るお手伝いをするだけだ。



 某月某日、月夜の夜。川辺を散歩する。

 東京スカイツリーが視界に入ってくる。展望台周辺で光の帯が360度定期的に回転している。灯台のような強い光ではない。が、こちらに届いているのは確かだ。こちらを照らしているという屁理屈にはなる。

 オートポイエーシスの提唱者であるマトゥラーナ、ヴァレラの「知恵の樹」[2]にあった有名な一節を思い出す。「いわれたことの全てには、それをいった誰かがいる」。光の帯が「照らしたすべてには、照らされた何かがある」ということだ。世の中、持ちつ持たれつ、お互い様、と日本人は、大昔から人や自然との関わりの中でサイバネティクスを実践してきた。ノーバート・ウィーナーに教えられるまでもない。が、形式知にはなっていない。

  お互い様と言えば、浮かぶのは<問い>と<答え>だ。

 <答え>というのは<問い>と一対の概念だ。 敢えて前後をかえて書いた。<問い>があると<答え>らしきものが出てくる。<答え>が<問い>に影響を与えることもある。<問い>と<答え>の間には円環的サイバネティク・ループがある。灯台と照らされている対象との関係がこれだ。

  <問い>は知覚の注意を絞る。意識的に何かに焦点を当てるように促す。<答え>は焦点を絞り、何かに集中することから始まる。しかし、<問い>は注意の反対側を無視する。そもそもコトバがそういうものだからだ。[3] メッセージ以上のメタ・メッセージがなければ、注意は反対側へは向かない。

 また、<問い>が認識の枠組みや処理プロセス自体に向けられることは少ない。<問い>は認識の枠組みや隠れた前提を問わなければ、既存の枠組みを超えられない。が、そもそもそういった使われ方は少ない。意識すればするほど、反対側の無意識の情報処理プロセスは無視される。また、意識的に無意識に注意を向けても抵抗が起こるだけだ。

 深い洞察のない<答え>が表層的になる、あるいはマンネリで変わり映えのしない<答え>が出てくるのは上で述べたパラドクスが潜んでいるからだ。照らされたものだけを意識する、しかし、照らしている側の無意識のプロセスは無視される。<問い>に集中すればするほど<答え>を探すための視野は狭くなる。ここでは、既存の枠組みはそのままだ。いつもの前提を置いていつものプロセスで情報が処理される。だから必然的に小さな<答え>しか産出されない。「頭のよい人」の<答え>はいつもこんな感じだ。<問い>に答えているだけで、その枠組みや処理のやり方が問われることはない。<答え>は<問い>に反射だけする格好になる。月並みなコーチングが使えないのもこういう理由だ。

   一方、よい<答え>は、よい<問い>から始まる。その文脈での深い洞察と、偶発的なことから創発する。無意識にも向けられた<問い>からはそういうことが起こる。ミルトン・エリクソンがやっていたことだ。無意識だけが真のシステム思考を知っている。大きな<答え>が見つかる。その意味では、クライアントの無意識に、心を開いて現実を見てください、と、クライアントの意識の抵抗を回避してメタ・メッセージを投げ込むのがエリクソンのスタイルだとも言える。

 もちろん、妄想しろというのではない。クライアントが望むものでなければならない。現実から、枠組みや思い込みのメタファーであるベイトソンの<結ばれあうパターン>をクライアントなりに再構築するのがねらいだ。<結ばれあうパターン>はメタファー、ドミナント・ストーリー、神話・・・色々な言い方がある。何れにしても、メタの視点から今の枠組みや処理プロセス自体を見る、聞く、あるいは感じることになる。<結ばれあうパターン>を変化させたければ、<《結ばれあうパターン》についてのパターン>の視点が必要となる。認知科学でいう<メタ認知>だ。どこかの自己啓発グルが<抽象度>を上げろと言っているのもこういうことだ。もちろ、メタ視点は、メタ・メタ視点、メタ・メタ・メタ視点と合わせ鏡の中のように続く。いつかは、いままでの思い込みを超えることができる。

 心を開いて物事を見る支援ができれば50点は得られたと思ってよいだろう。が、先は長い。残り50点の部分だ。

 深い洞察で<答え>が得られた。しかし、それは単なる<アイディア>でしかない。単なる観念だ。紙に書いた餅は食えない。<問い>と<答え>を認識の世界に閉じ込めたとしても、<結果>は認識ー行動のサイバネティック・ループの世界で実現しなければならないからだ。実行してみないことには何も得られない。身体化された知恵が必要だ。逆にいうと、身体化された無意識の暗黙知を活用できる。アイディアは実行できてはじめて価値がある。逆に実行しないことには身体知からのフィードバックがない。日本の製造業が大切にしている<現場・現実・現物>ということだ。エリクソンを継承するエリクソニアンがトゥルーイズム(Trueism)と言っていることと同じだ。


 しかし、それでも、最初からうまくいくことは少ない。実行できないこともある。実行には抵抗がつきまとう、それも認識のレベルだから厄介だ。[4] 頭でっかちに抵抗される。

 実行する方法はある。

 エリクソンなら、こういう治療的ダブルバインドを話すだろう。二股に別れている道があります。あなたは、そこを歩いています。後ろからクマが迫ってきています。あなたは右側から左側へ逃げなければなりません。右へ行っても助かるでしょう。左へ行っても助かるでしょう。あなたは、どちらへ行って助かりたいですか?という具合だ。状況に必然性が生まれる。何事にも状況設定は重要だ。演劇の良し悪しを演出家が決めるように。

 状況が切迫していない場合のバリエーションもある。

 プロジェクトA、B・・・・のうち、どれで失敗したいですか? うまく行けば、あなたは1週間で失敗します。もっと早く失敗するのはどのようにすればよいでしょう? もっとうまく失敗するにはどうすればよいでしょう? 何れにせよ、あなたは失敗することに成功します。失敗しなければ、普通に成功します。

 これは、「失敗は単なる成功へのステップでしかない」「失敗は悪くない」という枠組みの転換でもある。もっと言うと、実行するが当たり前の前提が滑りこませてある。もちろん、多くの企業では、相手の失敗を政治的に使って相手より有利な立場で振る舞おうとしている輩が多いのでその点は注意は必要だろう。

 が、実際にやってみないことには失敗もしない、ということでもある。失敗や成功というのは概念の世界にだけある。実際に手を動かし、体を動かし何かを実行してみると、実際にあるのは知覚の世界だけだ。もっというと世界との関わりというフィードバック・ループがあるだけだ。

 何かやってみる。最初に立てた<問い>や<答え>が少し揺らぐことがある。現実が認識と相互作用した瞬間だ。実行しなければ決して起こることはない。

 このループを回していくことで、思い込みが揺らいでくる。


 さらに、ループを回していく、最初より少しだけ心を開いて物事をみることができる。

 さらに・・・・・

 と続ける。間にあえて、<問い>と<答え>を言語的に磨いてみる。これは重要なことだと思う。

 エリクソンがやっていたことはこんなことだ。これは、コンサルタントやコーチにも必要なことなのだろう。

 クライアントが心を開いてものごを見たり・聞いたり・感じたり、とは言ったものの、サイバネティック的には、まず、コンサルタントやコーチがそうでなくてはならないということなのだろう。サイバネティックスの本質は、「お互い様」なのだろうから・・・
 

・・・・・・・・・・・・

 散歩の帰り道、 

 月が照っている。凪の夜、月が川面に映る。スカイツリーの姿も。

 これから月照と連想してはいけない。安政の大獄の影響で西郷隆盛と一緒に錦江湾に飛び込んだ坊さんだ。ただ連想せずに景色を見る。いや、景色は見られている。

 世界は、相互作用に満ちている。世の中は<結ばれあうパターン>から成り立っている。それ以外はない。その意味仏教的にはすべてが「空」の世界だ。

 コインパークの「空」の電光サインを見て、そんな考えが浮かんできた。

 仕事で使えるミルトン・エリクソン、全8回はとりあえず修了。

(つづく)

 文献
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