2015年12月7日月曜日

仕事で使えるミルトン・エリクソン(その6)

                 

 観察は、こころのお喋りをとめて

 マインドフルネスに行わなければならない、

 過去のことも、未来のことも一旦は忘れて。


 <ひとりごと>



どの場面でも使える魔法の方程式はない

   心理療法家のミルトン・エリクソン。伝説が一人歩きして超能力者だったように語られることがある。この能力が非常識な結果を生み出した、と。

  これが本当ならば、我々のような凡人は一歩もエリクソンには近づけないことになる。理由は、わけのわからない超能力の存在の有無もさることながら、超能力をどのように身に付ければよいのか?その方法すら皆目見当がつかないからだ。
  
 しかし、学術論文にあたると、まったくもってそういう<事実>はないことが分かる。もっと言うと、エリクソンがやっていたことは誰でもできるプロセスで説明されている。違いは、どこにでもある技法を、少し違う趣向、あるいはコンテクスト(文脈)で使っていたことぐらいだ。ただし、観察による状況把握と技法の精度とタイミングがとんでもなく精緻だ。それでも、エリクソンの技法は誰でも実践できることの積み重ねからできている。[0]

 その気になれば、ミルトン・エリクソンの使っていた方法は凡人にも使えるということだ。もちろん、非常識な結果を生み出すには、練習は必要だろう。観察力を鍛えて、適切なタイミンで活用するする必要はあるだろう。しかし、一歩一歩のほふく前進になるが、それでもエリクソンには近づけるし、うまくなるにしたがって、それなりの結果は出るようになるはずだ。

 ミルトン・エリクソンが使っていたプロセスを学べば、それなりに結果が出る。これがここでのテーマである。エリクソンに学んだオハンロンがクライアントに対する可能性を開いたところを学んだとすれば、我々がエリクソンの技法自体を学ぶ可能性を追求してもバチがあたることはないだろう。

 で、今日のお題は以下、[1]


 理論を実情に当てはめてはならない。

 徹底的にその場の人の振る舞いを観察せよ。これだけが、その状況に応じた、解決を方向付けるユニークな介入へと導く。



 某日某所の昼時、高層ビルに囲まれた庭園で休む。池の中には鯉が泳いでいる。穏やかな非日常の光景だ。数分足を止める。鯉たちを観察してみる。



 鯉は鯉だ。これ以外に何がある。と、ひとりつぶやく。

 観察を続ける。突然、水中にいる「種」に「個」が浮かび上がる。

 観察している対象は、世界に一匹だけの何かだ。

 太っているのがいる。ひげに癖のあるのがいる。ヒレの先だけ白いのがいる。痩せっぽちのがいる。全身金色がいる。白に赤い独特の斑のがいる。泳ぎ方もそれぞれ違う、と観察から様々な「個」が、その属性から浮かび上がってくる。

 名前をつけることまではしない。が、意識に何かが浮かび上がってくるのは確かだ。名前をつけることもできる。しかし、それは、実在とは違う記号だ。しかも、観察者側の都合だ。コトバは、一般意味論のコージブスキーが言った「地図は領土ではない」の地図でしかない。[2]

 観察を続ける。すると、鯉だと思っていた一匹が草魚だと分かる。細長い、ヒゲがない。これは別の「種」だ。だが、そこに実存しているのは、世界に一つの何かだ。油断すると、人は記号化されたグループが「個」だと勘違いする。バートランド・ラッセルなら論理階梯(クラスとメンバー)の混同というだろう。ITエンジニアならクラスとインスタンスの混同だ。これがよい例だ。そこにある何かを「草魚」と見る。十把一絡は便利だ。概念はこうしないと話すことができない。言葉の本質が「抽象化」だからだ。

  世の中にはどんなことにも使える魔法の方程式がある。この方程式を手に入れれば素晴らしい成功が得られる。

  これは、思い込みに思えてくる。書店に「MBAフレームワーク」のような書籍が並んでいる。思い込みの信者が大量に居る証拠だ。が、頭ごなしに否定するわけではない。問題が一般解として解ける場合、フレームワークは有効だ。教養として身につけておいても損はない。ただし、同じようなフレームワークを同じように使っていれば当然、その人はコモディティ化して顔の見えない十把一絡げ人材となる。それに一般解として解ける状況は限られている。

 幸いなことに、世の中はそう単純でもない。特殊解の登場だ。この場合、定数と変数を区別しないと解けない。この場合は、工夫が必要だ。そのフレームワークがどのような事例をどのようなプロセス、あるいは前提で帰納しながらつくられたのか?これが分からないと適用できないからだ。要は作成者の思考プロセスを知る必要がある。よいフレームワークは大凡プロセスとして提供されている。ただし、だいたいこういうフレームワークは直線的な因果関係でつくられている。それには注意が必要だ。過去を直線的に伸ばしたものが未来になるという結論になる。

 更に世の中は面白い、特異解の登場だ。過去の経験による枠組みでは理解できない。フレームワークを適用しようとしてもお手上げの状態だ。無理に適用しようとするとバカに見えてくる。

 この場合、やれることは現場で現実を観察するしかない。しかも、フレームワークは一旦保留して。記号の無い世界へ行く必要がある。小説家の城山三郎は、本田宗一郎へのインタビューを以下のように書いている。

「マシンを見ていると、いろいろなことがわかります。あのカーブを切るには、ああやれば、こうやればと・・・・。そして次のマシンのことを考える。こう考えていれば、もっととばしてくれる、などと。次の制作過程へ自然に入っていっているんです。」

 このレベルになると、問題解決と創造が表裏一体となる。区別する意味もない。で、最初にすることは、現場に足を運び、そしてまずはひたすら観察することだ。そして、洞察を深める。心理療法家のミルトン・エリクソンが行っていたことだ。何をすればよいのかは、都度浮かんでくる。問題はその微小なシグナルを受け取れるどうかだ。「無知の知」が創発する瞬間でもある。秘密はそれほど多くない。ただし理屈をこねくり回してはいけない。こころの中のお喋りも止める。今風に言うと、マインドフルネス。ただそれだけだ。

・・・・・・・・・
  
  さて、 昼休みが終わる頃、草魚の名前を考えてみた。命名「草ノ介」。ベタで古風な名前だ。オスかメスかも分からないのに迷惑な話だ。たしかに、観察者からすれば、「草魚」から一意な「個」となったのは確かなことだ。「草魚」ではなく「草ノ介」だ。しかし、この名前はボツにした。正確に言うと、名前をつける行為自体をボツにした。実在より名前を意識してしまうからだ。「個」を意識する前にある何かを観察するためだ。「個」が意識に登ったために無視されている部分がある。意識すると意識できる対象はたったの7±2になる。[3]だから、名前をつけるのはずっと後でよい。必要ならば。その前に自分が環境と一体になるくらいに観察することが最も重要なのだと。

 他愛もないことを考えた昼下がり。時間は過ぎていった。


(つづく)

 文献
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