2016年6月17日金曜日

分けること=わかること !?



                                                                                                                               
 <分かる>とは何か? <学ぶ>とは何か?

 まじめに考えると案外深いところに入っていく気がするのだが・・・・

 <ひとりごと>



まずは、偏見のない観察から・・・

  たまたま、Youtubeで、英国生まれの人類学者グレゴリー・ベイトソンの講義の一場面を視聴していた。



 
 講義が行われている場所は、カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校内のクレスギー・カレッジなのか? カリフォルニア州ビッグサー付近のエサレン研究所なのか?はたまた別の場所なのかは分からない。

 しかし、この場面は、おそらく1970年代で、ベイトソンの著作「精神と自然 : Mind and Nature 」の中に収録されていた、「知覚された世界が部分と全体に分かれるのは便利であり、必然かもしれないが、その別れ方の決定に必然ははたらいていない」の一部分であることは間違いない。

 さらに、著作を読むのと講義を視聴するのとは随分印象が違う。

 まず、「知の巨人」ベイトソンは物理的にでかい。身長 196cm くらいだったと言われているが、実際近くにいたらかなりノッポででかい爺さんであることには違いない。それが影響してか少し猫背だったとも言われている。

 ベイトソンの父、ウィリアム・ベイトソンは英国の有名な遺伝学者で、ベイトソンの名前はグレゴリー・メンデルから取られたのは有名な話だ。そして、この一徹とうちゃんに育てられた。ベイトソンには2人の兄が居た。上の兄さんは第一次大戦に従軍して戦死。2番目の兄さんは学問的なプレッシャーから自殺。そして一徹とうちゃんにのこされた秘蔵っ子が三男のグレゴリー・ベイトソン。但し、三男の気ままさから一徹とうちゃんには反発。遺伝学者にはならずケンブリッジで修士号を取って人類学者としてキャリアをスタートし分野横断的に手当たり次第に好き勝手なことを始める。[1] 生涯博士号を持たない<無冠の帝王>的な位置づけになってしまう。これは、あまりにも学際的なことをやり過ぎて、分野の狭い普通の博士には評価できなかったということなのだろう。

 話は飛ぶが、ベイトソン家は無神論者の家系だ。今でも米国には聖書を信じて、進化論を否定している人たちがいることを考えると、案外キリスト教というのは偏見の一つだとも思えてくる。その意味では、英国に何らかの保険としてこういう人たちが居ることと、ベイトソンは発想の前提にキリスト教的世界観を置いていないと考えるとこれは意味のあることなのだろう。で、ベイトソンが生涯追求したのは偏見を廃した「結ばれあうパターン: Pattern that Connects」という名前の<関係性>だ。おそらく仏教でいう<空性>ということだ。このこの事が関係しているのかは不明だが1980年7月4日にベイトソンはサンフランシスコの禅センターでなくなる。まさに、<関係性>に生きた生涯だったというわけだ。
 
 人は現れる世界を知覚するところから始める。しかし、いつの間にか何らかの前提をおいてそれを見たり聞いたりしている。しかし、それは無意識に行うことであり、その観察は何らか偏っていることに気付かない。あるいは、自分にとってツマラナイものは最初から無視される。

 そう考えるとこの映像を観察する時も何らかの偏見を持って見たり、聞いたりしていないのか?そこを<メタ認知>してみるのも面白いなと思ったところでもあったのだ。


(つづく)

文献
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