2016年9月1日木曜日

ミルトン・エリクソンの系譜:サイバネティクスとナレッジ


                                                                                                                             
     暗黙知としての心理療法の技法と形式知としてのサイバネティクスが

 二重らせんで生成発展している構図自体が自分の趣味にあっているのだろうなぁ(笑)。

 <ひとりごと>



そもそも Knowledge って?

  備忘録として少し書いておく。

  サイバネティクスの今は? MITのノーバート・ウィナーから始まるサイバネティクスの体験も随分色々なところに応用されているように思える。で、ここで疑問が湧く。一つはサイバネティクスの時系列的な発展の流れは? もうひとつはどんなところに応用されているのか?だ。

   これを整理したかったので、ネットにころがっていた『ラディカル構成主義』でお馴染みのエルンスト・フォン・グラザーフェルドのエッセー「Cybernetics and Theory of Knowledge」[1]を読んでみたが、なかなか頭の体操になって面白い。

 個人的に気になったのは以下だ、
 

Gregory Bateson and Paul Watzlawick introduced the cybernetic way of thinking into Psychotherapy and the development of different therapeutic methodologies on the basis of second-order principles is still going on. To give an instance, constructivism and Maturana’s autopoietic model in particular had a considerable influence in the area of family therapy. Its general approach has been guided by the notion that each member of a family constructs his or her own “reality” of the family, and that the problems of, and conflicts among, the individuals often spring from the incompatibility of their constructions.

 グレゴリー・ベイトソンとポール・ウオツラウィックはサイバネティクスの考え方を心理療法に導入し、第二次の原則(第二次サイバネティクス)に基づいた(従来とは)異なる心理療法の方法論を開発した、そして(その流れは)現在も継続している。例えば、構成主義やマトゥラーナのオートポイエーシスといった特定のモデルは家族療法の分野に大きな影響を与えている。この方法論の一般的なアプローチは、家族のそれぞれの構成員がそれぞれの独自に、家族に対する「現実」をつくりあげていて、相互や個々人の対立あるいは問題は、それぞれが構築した現実の不整合から起こるという考えによって導かれた。

 
 世界の現れは一人ひとり違う。面白いのは、ひとりひとりが違うやり方で世界を認識し、違う枠組みで物事を見ている。そして対立や問題は、<認識プロセスの違い>や<枠組みの違い>からくる<関係性>にあるという前提にたって考えましょう、ということだ。余談だがベイトソンがニューギニアのイアトムル族のフィールドワークから取り出した人間関係の類型が心理療法家のミルトン・エリクソン派生の短期療法・家族療法の<関係性>の基本になっているが、これを語らせたら、カリフォルニア州のサンタ・クルーズの古本屋で買ってきたスタンフォード出版から出ているベイトソンの処女作『Naven』をトクトクと語り始めるので結構話が長くなる(笑)。

   さて、これは、ベイトソンやウオツラウィックが研究対象としたミルトン・エリクソンが「それぞれの人はユニークな存在である」[2]していた前提と一致する。クライアントもセラピストも(メタの視点を取ろうと努力している)マジックミラーの後ろで観察している人も誰もがユニークだということだ。少なくとも世界をどう認識しているか?についてはそうだ。

 もっと面倒臭い話をすると、構成主義的な考え方を持ち込んで初めてエリクソンの考えを形式知として表現できる、ということになる。もちろん、個人の生物学的な認識としてマトゥラーナのオートポイエーシスを持ち込むと個々人の<生き物>としての認識を表現できるし、ニクラス・ルーマンの社会システム的なオートポイエーシスを持ち込むと、コミュニケーションを構成素する社会としての家族を表現できるというわけだ。もちろん、モデル化できたり表現できるから必ず問題が解決できるとはならないが・・・(笑)。手元の本がすぐ見つからないが、家族療法のポール・デル[3]やリン・ホフマン[4]、そして短期療法のイヴ・リップチック[5]の著作か論文はこんなモデルになっていた記憶がある。→後で確認。

 余談だが、そもそも論に戻ってみる。

 おそらくベイトソンだとこんなことを質問してくるだろう?「knowledge って何?」「Cognition とは?」「Control って?」「Ontology とは?」「Teleology とは?」「それぞれの用語の関係は?」

 このあたりを真面目に考え始めると用語のそもそもの定義に遡る必要が出てくる。

 Knowledge 一つとって、これを少し深いレベルで考えてみると面白い。普通は、<知識>と安直に訳してしまう。もちろん、これを知識と訳した明治の偉人たちには敬意を払う。が、ここでスタンフォードの哲学辞典に聞いてみるともう少し深いことが分かる、具体的には「What is knowledge?」[6]、オックスフォードのように格式張らず、アメリカ人の脳みそでも理解できるように親切に書かれているのがよいところだ。で、Knowledgeは認識論(Epistemology)[7]の要素として語られているのが分かってくる。
 

(つづく)

文献
[1]http://www.univie.ac.at/constructivism/EvG/papers/255.pdf
[2]http://ori-japan.blogspot.jp/2012/06/blog-post_22.html
[3]http://www.cser.ualberta.ca/conferences/2005/Documents/CSER316BURRIS.pdf
[4]http://psycnet.apa.org/psycinfo/1987-11074-001
[5]http://www.ijsfp.com/index.php/ijsfp/article/download/25/31
[6]http://plato.stanford.edu/entries/epistemology/#WIK
[7]http://ori-japan.blogspot.jp/2012/01/blog-post_14.html

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