2016年11月8日火曜日

リフレーミングの根底にある世界観


                                                                                                                             
 「お勉強」ばかりしているとバカになる。

 「お勉強」ばかりしているとバカになる(笑)。

 <ひとりごと>



リフレーミングの最終的なゴールは世界観の転換

  備忘録として書いておく。 

組織や個人の認識や行動に変化をもたらす

 短期療法、家族療法の技法で「リフレーミング」がある。最初にこれを命名したのは米国カリフォルニア州パロアルトにある短期療法、家族療法の研究機関であるMRIの研究員だったポール・ウオツラィックらと言われている。[1]

  ウオツラィックらは、例えば心理療法家のミルトン・エリクソンらの心理療法を研究した。もちろん、エリクソンと言えば催眠療法で有名だ。ただし、ウオツラィックらが賢かったのは催眠をエリクソンの心理療法の本質と考えなかったことだ。それで、ウオツラィックらが出した答えは、「適切な状況設定」+「リフレーミング」があれば催眠はなくてもエリクソンと同じ効果を出すことが出来ると証明したことだ。[2]

 つまり、リフレーミングを適切に使えば、組織や個人の認識や行動に変化をもたらすことができる、これが本来のリフレーミングということになる。もちろん、ここに適切な状況設定とパラドクス介入としてのリフレーミングが必要なことは言うまでもないが。

リフレーミングは瞬間芸ではない

 それで、

 なぜ、ネットで見かける「リフレーミング」つまらない瞬間芸になっているのか?

 道を歩いていてふと思い浮かんだ疑問だ。

 ここで言う、「つまらない」の意味は、認識や行動に変化をもたらさないという意味だ。例えば、ワガママを自由闊達と言い換える。これは単なるヨイショであってそれを言われたほうの認識の枠組みは変わっておらず、行動にもたいして影響を与えない、だからつまらない瞬間芸だ、ということだ。リフレーミング辞典もくだらなさの最たるものだ。
 

   どうして、こうなるのか?理由は簡単だ。

   リフレーミングを意図して、言葉にとらわれるとどうしてもデカルト的な世界観が強調される。[3] デカルトの世界観とは簡単に言うと、頭でっかちに「お勉強」ばかりしているような世界観だ。モリス・バーマンがまとめてくれている表に(一部加筆)を使うとよくわかる。結局、コンテクストから切り離された抽象的なコトバだけを置き換えているからこうなる。


デカルト(近代科学)
の世界観
ベイトソンの世界観
事実と価値
無関係
不可分
方法
〈実験〉
自然は外側から知られ、諸現象はそのコンテクストから取り出され、抽象化されて吟味される
〈参加者による観察〉
自然は我々との関係の中で明らかにされ、諸現象はコンテクストのなかでのみ知ることができる
目標
〈支配〉
自然を意識的、経験的に支配すること
〈叡智・美・優雅〉
無意識の精神が根源にある
量と質
〈定量的〉
抽象的、数学的な記述。定量化できることのみが現実
〈定性的〉
抽象と具象が混合した記述。質より量が第一
主客
〈主客分離〉
精神は身体から、主体は客体から分離している
〈主客一体〉
精神ー身体、主体ー客体は何れも同じひとつのプロセスのふたつの側面
因果
〈直線的〉
直線的時間、無限の進歩。原理的には現実を完璧に知り尽くすことができる
〈円環的〉
循環的でシステムの中の特定の変数のみを極大化することはできない。原理的に現実の一部しか知ることは出来ない
論理
〈either A or B〉
「AかBか」の論理。生きるか死ぬか?感情は生理現象に伴って二次的に生じる現象である
〈both A and B〉
「AもBも」の論理(弁証法)、生きることも死ぬことも。感情は精緻な演算規則を持つ
〈neither A nor B〉
「AでもBでもない」の論理、生きることでも死ぬことでもない。仏教の空の論理
原子論/全体論
〈原子論〉
1.物体と運動のみが現実
2.全体は部分の集合至上のものではない
3.生物体は原理的には非有機体に還元可能。自然は究極的には死んでいる
〈全体論〉
1.プロセス、形、関係がまずはじめにある
2.全体は部分以上になる特質を持つ
3.生物体、もしくは精神は構成要素に還元できない。自然は生きている

 もちろん、こうならないためにあるのがベイトソンの世界観というわけだ。MRIから派生した短期療法や家族療法はこういった世界観を持った観察者の視点からつくられているのは頭に入れておいたほうがよいのだろう。もちろん、冒頭のウオツラィックらにも影響を与えている考え方だ。

 さて、数学の問題を解くだけならデカルトの世界観でよいのかもしれない。しかし、人間関係を含め社会の中で起こっている問題に対処したり解決を目指すのであれば、数学を解くようなやり方だけでは不十分だ。公式があるとも限らないし、公式を適用できてもいつも同じ結果になるとも限らない。また、解決方法もいくつもあれば、答えが一つとも限らない。

 だから、まずは物事を「結ばれあうパターン」としての関係で見ようという提案のように思えてくる。しかし、これは難しいことなのかもしれない。理由は、人は見えるもの、聞こえること、感じることを第一に考え、それを小洒落た世界観で観察し、言語化するとなるとハードルは高いからだ。

 しかし、敢えてベイトソン世界観を身に付けるためにあれこれやってみましょう。この取り組みの一つがそもそものリフレーミング、つまり枠組みを「デカルト」から「ベイトソン」へ掛け替えることに思えてならないのだ・・・・

 

(つづく)

文献
[1]https://helda.helsinki.fi/bitstream/handle/10138/22824/seeingth.pdf
[2]https://www.amazon.com/dp/B017RFXXUO/

記事の内容の正誤について、執筆者は一切保証いたしません。また、本書の内容、エクソサイズなどを実行した結果被った被害などについて著者は一切責任を負わないこととします。本ニュースレターの内容は、以下クリエイティブ・コモンズ・ライセンスに従うものとします。但し、引用元の著作権は引用元に所属します。ご意見、ご感想は次へ tritune'`@''gmail.com
https://www.facebook.com/Okirakusoken-236949276723679

――

0 件のコメント:

コメントを投稿